慕容垂
ぼようすい
五胡十六国の燕(後燕)の創建者。鮮卑の有力氏族である慕容部の出。前燕の皇帝慕容儁、宰相慕容恪の弟であり、前秦や東晋の侵略を阻止するなど、有能な武将であった。
東晋の智将桓温に対抗できるただ一人の前燕の将であった。しかし、同族にして大司馬の慕容評から嫉妬を受け、殺されそうになったため、前秦に亡命した。
前秦の皇帝苻堅からは歓迎されるが、宰相王猛からは聡明さを危険視され、いずれ独立するから殺したほうが良いとまで言われた。しかし、苻堅は王猛の進言を容れなかったため、慕容垂は命拾いする。
やがて前秦は、慕容垂の故国である前燕を滅ぼし、華北を統一した。この統一事業に、慕容垂も武将として貢献する。そして華北で敵無しとなった苻堅は、次に江南に覇を唱える東晋への遠征を企画する。王猛は反対し、またほぼ全ての臣下も反対したが、慕容垂はただ一人賛成した。
「弱者が強者に併合されるのは当然の理で、今や陛下の威は海外に伝わり、虎の如き軍兵100万。韓・白(韓信と白起のこと)のごとき勇将が朝廷に満ちています。今主命に従わぬのは米粒のような江南のみ。何を躊躇されることがありましょう」
しかし、慕容垂は口では前秦を褒め称えながらも、東晋には他の臣と同じく勝ち目はないと思っていた。しかし、前秦が衰退すれば、自身の一族が栄達できると考えて、賛成したのである。
やがて、多くの前秦の家臣が危惧した通り、前秦は東晋に大敗する。ほとんど身一つとなった苻堅は、慕容垂を頼る。慕容垂の幕僚は、苻堅を殺してしまおうと提案したが、慕容垂は恩知らずではなかったため、苻堅を前秦の首都長安に無事に送り届けた。
その後、慕容垂は燕(後燕)を建国した。ただ、名目上はまだ前秦の家臣として籍を残していた。しかし、1年後、姚萇が苻堅を殺したあとは、皇帝を称して完全に自立した。また、前燕の皇族だった慕容泓や慕容沖も燕(西燕)を建て、姚萇が秦(後秦)を立てるなど、華北はまたしても戦乱の世に逆戻りしていった。しかし、次に華北を統一するのは、これらのいずれでもなく、苻堅によって滅ぼされた代国の生き残りである鮮卑拓跋部が建てた北魏であった。
慕容垂もまた、死の直前に北魏に戦いを挑み、そして大敗することとなる。慕容垂の死後、後燕を継いだ慕容宝は、全く力不足の皇帝であり、北魏には負け続け、内部でも反乱が発生して、後燕は建国から20年ほどで崩壊することとなる。
なお、その死については、慕容垂は帰途の際に参合陂で前年の戦いによる遺骸の山を見て弔いの儀式を行なったところ、戦死者の父兄が一斉に号泣して軍全体が大声で泣き出し、慕容垂はそれを恥じ入って吐血して病を得て急死したと伝えられている。もしかして恥ずか死。