慕容徳
ぼようとく
五胡十六国の燕(南燕)の創建者。鮮卑の有力氏族である慕容部の出。前燕の皇帝慕容儁、宰相慕容恪、後燕の建国者慕容垂の弟。
はじめ次兄の景昭帝慕容儁により梁公に、甥の幽帝により范陽王に封じられた。建熙11年(370年)に前燕が前秦に滅ぼされると、前秦に降って宣昭帝苻堅より張掖郡太守に任じられるが、数年後に免職となった。
宣昭帝が東晋攻撃を計画すると、慕容徳は奮威将軍に任じられた。しかし建元19年(383年)に淝水の戦いで前秦が大敗し、五兄の慕容垂(成武帝)が自立して後燕を建国すると、これに加わって車騎大将軍に任命され、范陽王に封じられた。前秦に留まっていたすぐ上の同母兄の慕容納や慕容徳の諸子たちは慕容徳らの叛乱を理由に全員殺害された。
建興11年(396年)に成武帝が崩御し甥の恵愍帝慕容宝が即位すると、遺命により使持節・都督冀兗青徐荊豫六州諸軍事・特進・車騎大将軍・冀州牧・南蛮校尉に任じられ、鄴(現在の河南省臨漳県)を守備した。
永康2年(397年)に北魏が後燕に侵攻すると、敗北した恵愍帝は北方に逃亡したため、後燕の領土は南北に二分されることとなった。南方にいた慕容徳は丞相・領冀州牧に任じられた。まもなく恵愍帝の弟の趙王慕容麟が鄴に入ると、鄴の守備が困難なことを理由に、慕容徳に滑台(現在の河南省滑県)への遷都を建議した。翌398年、慕容麟の建議を受け入れた慕容徳は南遷し、燕王を自称して南燕を建国した。399年、都を広固(現在の山東省青州市)に遷した。
400年、慕容徳は皇帝を称し建平と改元した。即位に伴い慕容備徳と改名した。男子がなく、甥の慕容超(慕容納の子)を皇太子とした。建平6年(405年)に70歳で崩御。遺体は夜に10余の偽の棺とともに城門から運び出され、密かに山中に埋葬されたため、埋葬場所は不明となった。