曖昧さ回避
- 五胡十六国時代の趙(後趙)の第三代皇帝。本項で詳述。
- 中国語にて、ベンガルヤマネコを指す単語。
- 台湾のVTuber、ベンガルヤマネコ15号(十五號石虎)氏。2023年6月に活動終了。pixivでは、石虎と検索すると、だいたい彼女のイラストとなっている。
概要
趙(後趙)を建国した石勒の甥。石勒は異民族(羯族)の出であり、奴隷となった経緯などから、親族がほとんどいなかったため、数少ない血の繋がった親族である石虎を大いに重用した。
しかし、石虎は、頭が切れ、武勲も抜群であったが、荒々しい石勒を遥かに超えた残虐さを有するという欠点があった。これを憂慮した石勒の家臣たちは、石虎を重用するのをやめるように訴えた。石勒も、一時は石虎を殺そうとしたが、母に相談したところ「誰でも若いうちは乱暴なものだ。貴方は耐える必要がある」と反対されたため、石勒は思いとどまった。
成人した石虎は、石勒に対して忠実となり、大いに武名を上げた。敵対していた前趙を滅ぼす原動力となった。しかし、残虐な石虎は、捕らえた前趙の将兵数万をすべて処刑した。
石勒は息子の石弘に帝位を継がせるため、前趙の都市であった鄴の統治を石弘に任せようとした。しかし、鄴は石虎が落とした都であり、石虎は鄴を任せられるのは自分であるべきと考えていた。こうして、石虎は石勒と、徐々に対立していく。また、この時、石勒と共に、鄴から石虎を追い出そうとした程遐に激怒し、程遐の家を襲い、妻娘を陵辱して衣物を略奪させたという。
石勒が病がちになると、石虎は帝位簒奪のための準備を始める。石勒の命令を偽り、石勒の子たちを遠ざけた。やがて、石勒が死去すると、皇太子である石弘の身柄を即座に押さえ、傀儡の皇帝とし、自らが実権を握った。石弘は石虎に敵わぬと判断し、帝位をすぐさま譲ろうとしたが、石虎は名分を考慮し、無理やりに石弘を即位させた。また、石勒の次代の家臣たちはすべて罷免し、重職は自らの部下に独占させた。また、石勒の高価な遺品は、すべて石虎の蔵に入った。
やがて1年後、石弘がさらに譲位を主張するが、石虎は石弘を無責任と罵り、無理矢理に幽閉し、殺害した。そして、自らが皇帝に登った。
武勇に優れた石虎は、東晋や鮮卑などの軍を次々と討ち破り、鮮卑の段部を滅亡させた。しかし、内政には才がなく、褒賞や刑罰の基準を定めず、大型の宮殿造営を続け、民には大規模な徴兵を強制したため、国内は乱れ、民は困窮した。また、石虎は好色であり、見目の麗しい国内の女性をことごとく後宮に入れた。夫がいようとお構いなしであり、抵抗した者は殺された。この時、殺された夫は三千人に登ったという。また、鮮卑の慕容部が建てた前燕には、逆に返り討ちに遭い、多くの領土を奪われた。
石虎の子で、太子に立てられていた石邃は傲慢な性格であり、容貌が美しい者がいれば、強姦した後に殺害し、牛羊の肉と共に煮込み、これを食したという。石邃の悪評は石虎の耳にも届き、一度は子を許そうとしたが、石邃は謝罪をしなかったため、石虎は激怒し、彼を殺し、その妻子や家臣も二百人ほどまとめて殺した。その次の太子である石宣は、弟の石韜を殺害した。これに激怒した石虎は、石宣を処刑して、石世を皇太子とした。やがて、石虎は病を得て死去した。石虎の死後、後継者争いが起き、2年のうちに4人の皇帝が登る異常事態の後、冉閔の反乱によって後趙は滅亡することとなる。
人物
敵対していた前趙を滅ぼすなど、武将としては一級の人物であった。石勒が石虎を排除することが出来なかったのも、石虎に代わる将がいなかったためである。
石虎は石勒を恐れ、彼が健在であるうちは忠実であったが、石勒が病を得ると、途端にその命令を偽るような真似をし始めた。
石虎は残酷な性質であり、逆らう者には我が子であろうと容赦をしなかった。太子であった石邃は、石虎に自領のことを細かく報告すると「なぜ小事まで報告する」と怒鳴り、一方で報告をしなければ「どうして何も報告しなかった」と怒鳴り、鞭打った。国内の民についても、その苦境を余所に、後宮を豪華にし、宮殿を次々に建て、男子を大量に徴兵したため、国内は荒廃した。さらに貪欲な性格で、先代帝王や先賢の陵墓をも全て発き、副葬されていた宝貨を奪ったという。
一方で、彼は仏教に親しんでおり、特に西域の出である仏図澄という僧を師として仰ぐ一面があった。当時、仏教は西域の出である民のみ、信仰することを許されており、漢人への布教は許されていなかった。ある時、漢人の家臣が「仏教は異国の教えであり、排除すべき」と唱えたが、石虎は「私も異民族の出なので、異教の教えを受けて何の問題があろうか」と答えて、国内への仏教の布教を許した。