概要
初代単于・頭曼単于の息子。
来歴
頭曼単于の息子として生まれる。しかし、父が娶った後妻との間に義弟が生まれると次第に父の関心が義弟に向いてしまい、頭曼は長男である冒頓に対して計画的殺人を企み、敵対していた月氏の人質として送り込まれる。冒頓自身は「父に見捨てられた」と悟る。
父・頭曼は月氏へと攻め込んできたため、自身も粛清されそうになったところを持ち前の機転を利かせて脱出し、父の元へ帰郷。父からも見込まれて一万騎の兵を与えられ、領土を守るように指示される。この時点で、父へのクーデターを計画し、「いずれ父に殺されるぐらいなら、逆に殺し返して単于になってやる」と意気込んでいた。
手始めに信頼できる部下を生成するために、自身が指定した「物・自身の愛馬・自身の愛妾」に矢を放つように指令し、矢を放たなかった者は処刑した。こうして信頼できる部下を得て、父・頭曼、継母、義弟側近たちを殺害し、二代目単于に即位。
治世
即位直後、他の部族の族長・首長たちに比べて若輩であったため、何かあると部下を集めて意見交換して適切な判断を下していた。
若輩者の単于である冒頓を甘く見た東胡王は、使者を送り、生前の頭曼の愛馬だった「『千里を駆ける馬』を譲ってはくれないか」と交渉した。冒頓は部下を集めて意見を聞き、「馬は遊牧民の宝だから譲るべきではない」旨を述べた部下に対し、冒頓は「隣国の付き合いだから、何頭もいる馬の中から、たった一頭の馬を惜しむべきではない」と返し、その馬を譲った。
このことで、東胡王は「冒頓はバカだ」と甘く見て、再度使者を送り、「冒頓の后の中から一人を譲ってはくれないか」と交渉する。さすがに冒頓の部下たちも「東胡は我々をバカにしているから攻め込むべき」と業を煮やし冒頓に申し出るが、冒頓は「后は何人もいるから、これも隣国の付き合いとして一人の后を惜しむべきではない」となだめ、一人の后を譲った。
さらに、東胡王は調子に乗って再三、冒頓のもとに使者を送り、「隣国同士で国境としている荒れ地を、東胡が所有することにしたい」と交渉した。部下たちは遊牧民ゆえに土地の執着が薄い者もいれば、東胡に対して「奴らの言いなりになってたまるか!」と堪忍袋の緒が切れた者もいた。冒頓は意見を聞いたが、その中で「荒れ地は何の役にも立たない」と主張した部下に怒り、「土地なくして国があり得るか!」と切り殺し、残った部下たちに「今すぐ東胡を襲撃する!遅れた者は斬る!」と命令して東胡を奇襲。東胡は先々の件もあって完全に油断しており、王や側近たちは殺され、人は奴隷にし、土地・家畜・財宝などを根こそぎ奪っていった。
このことで自身が統治する匈奴に「土地の重要性」を説き、チンギス・ハンに先駆けること1400年も前の時代に、帝国型の社会システムの概念を遊牧民に刷り込んだ功績は大きく、中国・モンゴル史において『史記』を通して今日に至って語り継がれている。
やがて匈奴は月氏をも制圧し、冒頓はモンゴル高原の統一を達成。強大な匈奴国家を打ち立てた。折しも中原は楚漢戦争の真っ最中であり、彼らの意識が北方に向いていなかったことも功を奏した。しかし“高祖”劉邦が中原統一を果たし、漢王朝が成立すると、漢人と匈奴は再び対立するようになり、紀元前200年、白登山の戦いが両国間で始まった。
この戦いで漢は劉邦自らが兵を率いる親征の形を以て派兵した。冒頓は前線に老兵を置いて漢軍を油断させ、敗走するふりをして追撃してきた劉邦周辺の兵を逆に包囲。7日間も兵站を絶たれ自らの首も危うくなった劉邦だったが、陳平の献策で冒頓の細君(妻)に賂を贈り、「このまま冒頓の侵攻を許せば冒頓は漢の美女に惹かれて貴女を顧みなくなる」と彼女を動揺させ、細君伝いに和睦に持ち込むことに成功した。
しかし講和の条件は匈奴に有利な内容で締結されたため、以後武帝の代になるまで漢は匈奴に服属する形で貢ぎ物や漢の公主(※実際には無理なので有力貴族の娘をそのように仕立てた)の匈奴の地への降嫁といった屈辱外交を余儀なくされる。
モンゴルの地に覇を唱えた冒頓は紀元前174年に没し、子の稽粥(老上単于)が後継となった。
余談
- 劉邦没後、未亡人となっていたあの呂后相手に「独り身は寂しかろうから、私が慰めてやろう」という大胆極まりないセクハラ親書をよこしたことがある。当然呂后は冒頓の無礼に激怒し戦も辞さない勢いだったが、季布の諫言でやんわりと断りの返書を出すのみに留まった。この時の冒頓の心情については、匈奴の慣習に則っただけで悪気は無かったとも、呂后をからかっただけとも言われるが、実際の真意は不明である。後に冒頓はこの事について丁重に謝罪している。
関連タグ
頭曼単于…父
老上単于…息子
ビン~孫子異伝~ - 冒頓をモデルにしたと思われる単于・冒曼が登場する。父を殺して単于に即位し匈奴統一を果たすなどの点は共通しているが、父の代まで「大人(たいじん)」という呼称だった。