概要
生没年不詳(紀元前三世紀前半ころ)
田単は春秋戦国時代の斉の将軍。
窮状に陥った斉を救った英雄でもある。
即墨の戦いでは、名将楽毅を間接的に戦線から排除し、奇策の連続で斉の城は残り二城まで追い込まれていた状況から、全ての城を取り返した。
司馬遷は特に高く評価しており、「始めは処女の如く敵に戸を開けさせ、後は脱兎の如く守る暇を与えない」と評し、史記では個別に列伝を立てている事から高評価だったことがうかがえる。
前段:強国、斉の下役人「田単」
当時の斉は非常に強く、楚の国の大半を占領していた他、燕(えん)は斉の策略により国の内情を不安定にされた上で、燕の悪臣を討つための救援と見せかけて、燕王まで殺害しており、属国状態となっていた。
燕の皇太子は2年後に王位を継いだ物の、当時の斉の王である湣王(びんおう)に忠誠を誓った上で王位に就く事を許されていた。
他には秦に攻め込んだほか、中山国に加え、宋も滅ぼした湣王は徐々に高慢で粗暴になっていき、恫喝的な外交を繰り返す様になり、更には宰相の孟嘗君を疎み殺害しようとするなど目に余る行動も増えていた。
周囲に属国が増えて行き強大化していく上に、趙、魏、韓、燕は領土を奪われていたため、諸侯は斉に対し強い危機感を抱いていた。
しかし、一国、二国が協力しても斉には勝てない。
また、隙を見せれば周囲が襲い掛かってくるであろう戦国の世にあっては安易に戦いを起こせなかった。
そんな斉に対し一番強い恨みを抱いていたのは属国と化した燕であった。
領土を奪う為に謀で国を荒らされ、父まで殺された燕の昭王の恨みは深く、表向きは斉に従いながらも富国強兵の策をうち、私財をなげうってまで、数々の人材を獲得していった。
特に各国を巡っていた名将である「楽毅(がくき)」は、どこの国でも欲しがる人材であり、燕が彼を獲得出来た事が斉への打倒へと動いていく事になった。
燕は一国だけで斉を打ち破ることは出来ず、二国でも駄目なら「斉に恨みを持つ全ての国で連合軍を組む」事を計画、実行に移した。
斉への手痛い仕打ちを受けていた各国に加え、名将名高い楽毅に対する求心力もあり多数の国が、その計画に乗る事となった。
楽毅は趙を説得し、魏と韓を説得。さらには趙の友好国であった秦も引き入れて連合軍を結成。
燕・趙・魏・韓・秦の五か国連合軍を組む事となったのである。
楚は名義上は斉の味方となるが、実質は敵対している立場であった。
この連合軍を合従軍と称する。
湣王はこの動きに気付かず、気付いた時にはもう遅かった。
精強である斉の軍も名将楽毅が指揮し、各国の精鋭を集めた軍には敵わず撃退されてしまい、多数の将軍と精強な兵をまるごと失う事となってしまった。
合従軍は斉の主力を壊滅させると解散し、燕は一国のみではあるが斉との戦いを継続。
楽毅は占領した地を良く統治し、略奪を禁じたほか、過酷な税や法律を改めた。
この評判により、斉の城は次々と楽毅に降り破竹の勢いで斉の都に迫る勢いであった。
そしてそんな中で田単は、公族である田氏の遠縁であるものの才能を認められる事が無く、職に窮していた。(王家に連なる血筋であるものの、遠縁であれば庶民と変わらないのは良くある事。)
何とか斉の都である「臨淄(りんし)」の市場における下役人の仕事にありつく事が出来たと言う所だった。
田単は楽毅の能力と燕と斉の現状を冷静に把握しており、湣王が臨淄から莒(きょ)に避難すると、田単は安平(あんぺい)へと避難する。更にそこから即墨(そくぼく)へ逃げる時、人々に助言を送った。
それは、車輪の端から出ている軸を切り取り鉄の蓋を被せて補強し、脱輪しない様にするという物だったが、大半の人々は斉の強さを過信し、現状を楽観視していた。
多少負けたところで、強い斉が反撃すると信じていたため、笑って補強を行わなかったため、田単の一族を中心とした一部の人々のみが補強するに留まったが、いざ逃げる段になると即墨までは荒れ地が多く走る馬車は次々と脱輪してしまった。
大量の私財を見捨てられずに燕の軍に捕まり捕虜となる者は後を絶たなかった。
田単の助言を聞いていた者だけが、無事に即墨までたどり着く事が出来た。
成り上がり将軍・田単
燕軍は破竹の勢いで城を落としていき、残りは湣王が残る莒と即墨のみとなった。
楽毅はまず湣王が籠る莒を攻めた。
しかし、楚の将軍であり名目では斉を助けに来た淖歯(とうし)により湣王は殺害され、莒を開城する手はずだったが、王を殺された事により莒の住民が激怒。
淖歯は殺害され、斉の皇太子である法章が王位を継ぎ「襄王」となり決死の抵抗を始めてしまった。
死兵となった者を相手にするほど楽毅は愚かでは無く、まず即墨を攻めた上で落城か開城をさせた上で、時間を置く事で莒にいる軍の士気の低下を計った。
仮に即墨が落とされれば、残るは莒のみとなり、斉の滅亡まであと一手の所まで進めていたのである。
楽毅の軍が向かってくると知って即墨の権力者たちは慌て出した。
開城する手もあるが、最後まで残った都市である、略奪が行われれば妻子がどんな目に合うかはわからない。ある程度抵抗し、良い条件で和睦を取り付けたいのだが、しかしながら即墨の中に兵はいたが、それを統率する者は皆無であった。
名だたる将は合従軍との戦いでことごとく討ち取られていたのである。
その中で、即墨に逃げる際の田単の話を聞いて会った者がおり、聡明で兵法にも通じていた田単を将軍にすると言う提言を行った。下役人に過ぎない田単の実力を疑問視する声もあったが、どの道他に手も無いので、役人たちの後ろ盾の元、斉の将軍となった。
田単は楽毅相手ではとても勝ち目は無いと固辞したが、一族の安全を確保するため、将軍職を受け入れた。
しかし、成り上がりの将軍である事は目に見える程に明らかだった。
戦うにしろ、城内をまとめあげなければならない。まとめあげなければ、誰も田単の命令を聞く事は無いからだ。
田単はまず、城内の各家の庭先で祖先を祀る様に命じた。
成り上がり将軍とは言え、命令は命令であり、死ぬ事を命令された訳でも無いので各家は祖先を祭るために供物を捧げた。
すると、翌朝にはその供物を狙い、カラスが大量に集まり、見た事も無い光景となった。
まるで何かの予兆の様にも見えたそれこそが田単の狙いであった。
田単は演説で「神が私に教えを授けてくれる予兆である。」と言うと、兵士の一人が冗談を言う様に「俺の中に神が降りて来た気がします。」と言うと、田単はその者を丁重に壇上に連れてくるように命じた。そして、その兵士に跪くと、「神の化身である貴方の指示に従い、戦いを進めます!」と宣言した。
これにより、「軍令」を「神の言葉」として扱う事で指揮系統を強化した。
オカルトが大きく幅を利かせていた時代なので、これは大きく作用し即墨の兵は軍令をきっちりと守るようになった。
田単の策略
指揮系統は強化出来た物の、言ってしまえば最低限の準備でしか無かった。
相手は名将楽毅、いつまで城を持たせられるかと考えていた田単に吉報がもたらされた。
燕の王である昭王が死に、その子である恵王が即位したのである。
楽毅は皇太子時代の恵王に何度も諫言(かんげん)を行っており、疎まれていたのだ。
この情報は田単も知っており、他国の人間が知るような情報ゆえに想定以上に仲が悪いと見た田単は燕の国内に間者(スパイ)を潜り込ませた。
しばらくすると、燕では不穏な噂が流れだした。
「楽毅将軍にかかれば、莒と即墨はすぐに落とす事が出来るが、斉の人民を手懐けて自らが斉王になるに違いない。」
恵王は楽毅と不仲だった事に加え、戦を知らないため頑強に抵抗している二城の現状を知らず、七十余城をあっという間に落としたのに残る二城に手間取る事に不信感を覚えていた。
これにより、恵王は楽毅を解任し、騎劫(ききょう)を将軍とした。
反間の計を使用されたと察知した楽毅は大恩がある昭王の顔に泥を塗る事を避けるために、趙に亡命する事となった。
この楽毅に対する余りの仕打ちに楽毅に喜んで付き従っていた燕兵の士気は大きく低下した。
最大の難敵である楽毅を戦場から排した田単は次々と策を繰り出していく。
騎劫は楽毅に比べて功績が無いため、楽毅と同等、それ以上の功績を得るため、即墨と莒の短期陥落を狙っていると分析した。
まず、「斉の兵士は降伏して捕虜になると鼻を削がれて前線に立たされる。斉の兵士は皆その事に恐怖している。」と言う噂を流した。
これを真に受けた騎劫は、捕虜を鼻そぎの刑に処して前線に立たせた。
無惨な姿となった元斉の兵士を見て、即墨の兵士は「降伏すれば、あんな無惨な目に合うんだ!あんな目に合うなら死んだ方がマシだ!」と徹底抗戦の意志を固めた。
そして、「即墨の城内では、城の外にある祖先の墓を荒らされないか心配だ。荒らされれば、どんな祟りがあるかわからない。」と言う噂も流した。
祟りが起こると思わせるため、騎劫は城の外にある墓を荒らし、その遺骸を焼き捨てた。
斉の兵士は祖先に対する仕打ちに激昂し、必ず一太刀浴びせるまでは死なないと言う怒りと強い決意を持った。籠城戦ゆえに分配される食糧は少なく、辛い状況であったが誰一人として降伏を言い出す者はいなかった。
また、少しずつ城壁に老人、女性や子供を武装して立たせた。
燕の兵は最早、見張りに立たせる兵士もいないと見て、油断を深めていった。
そして、開城のための使者を送った上で、田単は密かに騎劫に渡りをつけ、即墨が降伏しても自身の家族と財産に手を出さない事を約束させた。
降伏の使者は、「最後まで戦って討ち死にする。」と言う者達を説得するため、数日頂きたいと騎劫に願い出て、騎劫は三日の時を許した。
長い間の遠征に終わりが見えた燕兵たちは喜んだ。即墨が落ちれば残りは莒のみであり、戦いが終われば家族の元へと戻れるのだから。
しかし、それすらも田単の策略の内であった。
斉の救世主、田単
三日の時を稼いだ田単は兵糧庫の食料を全部出させて、兵士の体力を取り戻させた。
そして、1000頭の牛を用意し、それぞれの角に剣を括り付けた。
夜中に城壁に穴を空けると、牛の尻尾にたいまつを括り付けて、火をつけた。火によって荒れ狂った牛は次々に休んでいた燕軍へと突撃していき、ある者は牛の角に括り付けられた剣で刺し殺され、ある者は燃え広がった火によって死んでいく。
その背後からは、怒り心頭の斉兵五千人が次々と斬りかかっていき、祖先の恨みを晴らすために容赦無く燕兵に襲い掛かっていく。
民衆も銅鑼や鐘などで、まるで天地が揺れる様な騒ぎを起こし、燕兵は完全に混乱の只中に落とされた。騎劫は反撃も出来ないまま、この戦いで死亡した。
田単が使ったこの策略を「火牛の計」と呼ぶ。
燕兵は撤退した先で、既に落としていた城に逃げこもうとしたが次々と落とした城は叛旗を翻した。
追撃の手を緩めなかった田単は楽毅が奪った七十余城を全て奪い返したのであった。
そして莒の地にて襄王を迎え入れて都である臨淄へ戻すことが出来た。
この功績により、斉の襄王は深く感謝し、田単を相国に任命し、また夜邑に一万戸を与えられて、安平君に封じられた。
その後の田単
その後の田単の足取りについて、ハッキリとした事はわかっていない。
しかしながら、幾つかのエピソードがあるので紹介していきたい。
- 斉の宰相に就任した田単は善政を敷いていた。ある時、寒さに震えた老人を道中で見かけると、自分の着物を与え寒さをしのげる様に取り計らった。しかし、田単の人気に恐れを抱いた襄王は田単が人気取りをして王位を簒奪するのでは無いかと疑いを抱きだし、誅殺しようと目論むも臣下によって止められた。しかし田単を疎ましがっていた者は他にもおり田単と親交のあった貂勃(ちょうぼつ)を罠にかけ連座で失脚させようと企んだ。襄王は威圧的な態度で持って田単を問いただしたが、貂勃は田単には燕を打ち破った功績があり、またそのタイミングで王族に連なる者として王位に就く事も出来たのに襄王を迎え入れた高い忠誠心を訴えた。襄王は自身の不明を恥じて田単を陥れようとした者を処刑し、詫びとして田単に加増を行っている。
- 田単が狄を攻めた時、途中で魯仲連と言う者に出会い、負けを宣告される。気にせず戦いを始めたが、被害が出るばかりでまるで勝てなかった。田単は魯仲連の元に向かい教えを乞うと、前線に出て戦う事を進言され、自身が前線に出て戦うと兵の士気も上がり、見事に狄を撃破できた。
- 後、趙に亡命し宰相も務めた。趙奢とのやり取りから趙奢が秦軍を破った紀元前269年の閼与の戦いの頃には趙にいたものと思われる。のち宰相を務めたとされるが長平の戦いが始まった紀元前262年頃には亡くなっていた可能性が高いが良く解っていない。
余談
- 最強の敵を戦わずして排し、自軍を弱弱しく見せて敵の油断を誘い、戦う時には既に勝利がほぼ確定していると言う状況を作り出しており、孫子の兵法を忠実に実践した人物である。
- 援軍が無ければ籠城戦は基本的に勝利条件を満たせないのが普通だが、援軍無しで籠城を行って相手を打ち破ると言う、類稀なることをやった人物でもある。
関連リンク
楽毅…好敵手。晩年趙へ亡命した共通点がある。