概要
本名は朱棣(しゅてい)。(1402〜1424)。諡号は成祖。
洪武帝の四男として生まれる。
朱棣は燕王として対蒙古の前線・北京の守備にあたっていた。そこでモンゴル軍との戦いに活躍し、軍事的才能を発揮。洪武帝は我が子の中でこの燕王が最もすぐれていることを判っており、内心は彼を世継にしたいと考えていたが、皇后や廷臣から長幼の序に反すると反対され、心ならず長男を皇太子とした。ところが皇太子が早没、やむなく皇太子の子(のちの建文帝)を皇太孫とした。1398皇帝の継嗣問題が起こることを恐れながら洪武帝は没し、16歳の建文帝が即位。建文帝は若いだけでなく温和な性格で、政治や軍事の過酷な指導は無理と考えられていたが、長子継承の原則を守ろうとする黃子澄や斉泰など側近や方孝孺などの儒学者がその政治と支えた。
靖難の役
皇帝の座をねらっていた燕王は諸王から潰していき、99靖難の役で反乱。「君側の奸を除き、帝室の難を靖んずる」。燕王は4年に渡る戦いを制し永楽帝となった。建文帝は自害、黃子澄と斉泰は殉死、方孝儒に対して永楽帝は強く帰順を勧めた。しかし方孝孺は「燕賊、位を簒う」と紙に書いたので永楽帝は激怒。方孝孺の口に刀をおしこんで抉り、その一族、門人の全て873人を殺害、最後に方孝孺を南京城の聚宝門外に引き出して死刑を執行。こうして即位した永楽帝は建文帝の存在を歴史上から抹殺、自らを二代目皇帝とした。建文帝の名誉回復は乾隆帝の時代、1736年まで待つことになる。
永楽帝は父の作った皇帝専制政治を推し進めるが、実際の政治は宦官たちが執り行っていた。
宦官でイスラム教徒の鄭和に命じさせ、中東への大航海事業に着目。鄭和からキリンが贈られてきたとき、伝説の動物・麒麟を思い出し、永楽帝は気分を良くした。
1424年、第5回モンゴル遠征の帰途に陣没。享年65。長陵(明の十三陵)に葬られた。
功績
- 朱子学による統治理念を徹底させた。
- 紫禁城を作った。
- 生涯5度のモンゴル親征を行い、タタール・オイラトを威圧し続けた。
- チベット・ベトナムへ遠征し、明の領土を拡張した。その版図は明最大となった。
- 倭寇問題に関して日本と和解し、足利義満と貿易を行った。
関連作品
ドラマ
- 『永楽帝〜大明天下の輝き』
関連タグ
参考
- 世界史の窓
- ウィキペディア