略歴
幼少期
隆慶帝の第3子として誕生。上の2人が夭折していた事から即位する。とはいってもまだ10歳だったので、宰相の張居正の補弼を受けることになる。この張居正は明末の名宰相として名高い人物であり、複雑な税制を一本化、無駄な歳費や公共事業の削減などを行う事により400万両の余剰金を作るなど財政を好転化させ、不穏な空気が漂っていた満州情勢も李成梁の起用で落ち着かせるなどして安定していた。
この間に万暦帝は張居生により非常に厳しく教育を施され、母である皇太后もこの方針を支持した。教育はかなり厳しく、先日の講義で学んだ事を正確に暗唱できれば、「聖天子」と褒め称えられたが、間違えば激しい追求を受けたとされる。
堕落
1582年に張居正が亡くなり、親政を始めるが当の本人は全くやる気がなく、なんと25年間も後宮に引きこもるというニートも真っ青な親政を行う。その間は派閥争い、税の搾取といった腐敗行為、内乱、そしてなりよりもヌルハチの登場があった。にもかかわらず何もしなかったとは、ある意味すごい胆力である…。そんなニート皇帝であるが豊臣秀吉が引き起こした朝鮮の役においては、宗主国として朝鮮を援助した。他にも寧夏の哱拝の乱・播州の楊応龍の乱の鎮圧などによって、軍制の腐敗と相まって財政はさらに悪化してしまい明の衰退を極めた、1620年に崩御、享年56歳。
明朝屈指の在位を誇り、趣味などの使いたい事には国庫から資金を捻出。そして政務方面では金をケチり、重臣の欠員の補充すらしなかった(ある時期は大臣が1人しかいなかった事もあったという)ため、国家統制は全く取れていなかった。これらの要因により明朝の体制はゆっくりと、そして確実に痛めつけられる事になった。
結果、明朝滅亡の火種は万暦帝の死後に急速に芽吹いたため、次の王朝である清の時代に編纂された歴史書「明史」では「明は万暦に滅ぶ」(明朝を滅ぼしたのは最後の皇帝ではなく万暦帝である)と酷評され後世にも汚名を残すことになってしまう(実際の最後の皇帝である崇禎帝は若くして滅びゆく王朝を建て直そうと17年間奮闘した末に、李自成によって首都を落とされて自殺に追い込まれた。この経緯から後世では同情的に見られる傾向が強い)。
なお、「明史」は次の王朝である清朝が編纂したものだが、明の歴代皇帝に対する評価は概ね激甘である。ただし、万暦帝は除く。
余談
このように史上最悪の暗君であるのには変わりはないが彼の幼少期には聡明利発で将来を期待されていた。これをみた張居生は相当なスパルタ教育をしており期待に応えたい気持ちで過ごしてたのであろう…そんな張居生にはその強引なやり方で敵対者が多かったようである、そんな教育係が死んでからどこか燃え尽き症候群のようにどこかぽっかり空いたような感じがしてままならない、何を目標にしたいのか自暴自棄になっていたのかは本人のみぞ知るところであるが、もはや人生どうでもよかったと思ってもいいのであろう…彼の生涯は今日の教育においてどこか注意しなければならないところである…彼みたいにならないために
万暦帝に最も愛された息子の末路
ちなみに、万暦帝が最も愛していた子供は、これまた最も寵愛していた妃との間に生まれた三男の朱常洵であった。
当然ながら、その三男を皇太子にしようとしたが、群臣の反対にあい断念、代りに、三男・朱常洵に「福王」の称号と洛陽の地を与えた。
そして、「最も愛していた三男を皇太子に出来なかった代りに、その三男の結婚式の為に国家予算約1年分の金を使う」という無茶苦茶にも程が有る真似さえやらかしてしまった。
なお、この三男は、その後も法外な贅沢を許されたせいで、父親に勝るとも劣らぬ立派な馬鹿息子に育ち、領地であった洛陽で毎日のように美男美女を集めた豪華な宴会を開き、李自成の乱の頃には、とうとう体重が180kgに達していた。
そして、民衆が戦乱や貧困で苦しんでいた時期に、こんな真似をやった朱常洵は、当り前だが民衆から反感を買い、李自成の乱の際に処刑される事となった。
その後、朱常洵の肉は切り刻まれ、鹿の肉と共に煮込み料理にされて、洛陽の民衆や李自成配下の将兵達に振る舞われた。
李自成は、これを「福禄宴」(福=朱常洵の称号である福王から。禄=鹿と同音)と称したという。