概要
唐は文化的・政治的にも栄え、強大な軍事力で東アジアを支配した超大国であった。そのなかにあって当時の日本は政治的に建設途上であることから、舒明天皇2年(630年)、大和朝廷は犬田御田鍬を正̪̪使とする朝貢(唐を東アジアの盟主として臣従するための)使節を派遣した。以後200年以上に渡って遣唐使の派遣が続いていく。
朝廷の目的としては「朝貢外交」のほかに「(法制度を学ばせるための)留学生(阿倍仲麻呂、吉備真備など)」、「(仏法を学ばせるための)留学僧(空海、玄昉など)」の派遣があり、彼らによって多くの書物・仏典などが日本にもたらされた。
しかし、当時の日本船は船底が平らという脆弱さから、使節に選ばれることは命がけであり、それがために正使にあたる人物を4艘の船にそれぞれ一人ずつ乗せた例さえあった(ちなみに、このときは運よく嵐にあわず、4艘とも唐にたどりついたという)。
歴史
唐の前王朝である隋が中国大陸を支配しているころから派遣され、その時代の使節は遣隋使(600~618年、計5回)という。
天智2年(663年)8月、白村江の戦いで朝廷が唐・新羅連合軍に惨敗を喫すると、使節は3回にわたり「和平交渉」が主たる任務となった。
その後、任務の中心は法律や仏教の伝来に移っていく。奈良時代に最盛期を迎え、唐の律令法制度に関する知識の伝来が大宝律令や養老律令などの制定に貢献し、日本における律令国家の成立をもたらす。また仏教でも、鑑真の来日により正式の戒壇が成立し僧侶の綱紀粛正に効果を発揮する等、多くの成果を挙げている。
しかし、安史の乱を経た平安時代には唐の衰退にも伴って回数は減っていく。寛平6年(894年)、54年ぶりに派遣が検討されたが、唐はこのころ一地方政権に転落、内乱が続いていたこともあり、遣唐大使・菅原道真は使節の派遣を中止する意見書を朝廷に提出、中止が決定した。