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概要編集

 生没年不詳、南朝方の有力武将・楠木正成の三男。父・正成、長兄・正行の死後、楠木家を継ぎ、南朝方の有力武将として北朝方との合戦、和平交渉に活躍した。


建武の新政崩壊編集

 延元元年・建武3年(1336年)、北畠顕家に敗れ、落ち延びていた足利尊氏が九州で再起、西国の武士を糾合して上洛、摂津国・湊川で尊氏軍を迎え撃った父・正成、叔父・正季は敗れて自害。建武の新政を主導していた大覚寺統の後醍醐天皇は吉野に逃れて新たな朝廷(南朝)を起こし、鎌倉幕府が擁立し、後醍醐帝によって廃立された持明院統・光厳上皇の弟・光明天皇を奉じた尊氏との間(北朝)に朝廷間の抗争が始まる。

 

 正平3年・承和4年(1348年)1月、父・正成の後を継いで北朝方と戦い続けていた長兄・正行、次兄・正時が細川顕氏を破るも、尊氏の執事・高師直率いる大軍に敗れて、四条畷において自害。弟・正儀が楠木家の家督を継ぎ、南朝に出仕する。

 このころ、南朝方は父・楠木正成、長兄・正行をはじめ、北畠顕家新田義貞などの有力武将を失い、九州に一大勢力を築いた懐良親王、菊池一族を除いて勢いを失いつつあった。


観応の擾乱編集

 一方、北朝方も将軍・足利尊氏の弟・直義と尊氏の執事・高師直の対立が先鋭化、正平5年・観応元年(1350年)、直義が南朝に降伏して挙兵、翌正平6年・観応2年(1351年)、直義方は高一族を殺害し、尊氏・義詮父子と和睦した。

 しかし、実権を握った直義に政策面の失敗が続き失脚、尊氏は直義討伐を正当化するために南朝に帰順、正平7年・文和元年(1352年)1月、直義軍を破った尊氏は、降伏した弟ともに鎌倉に入った。(なお、直義は同年2月に急死した)

 

 南朝方も、一方で、この政治体制を永続する気はなかった。同年、後村上天皇は北朝方の光厳上皇・光明上皇・崇光天皇と皇太子・直仁親王を拉致して吉野に還幸、北朝の正当性を揺るがす事態に京を預かっていた尊氏の嫡男・義詮、佐々木道誉らは仏門に入ることになっていた弥仁親王を即位させ、後光厳天皇とした。


南朝方の攻勢編集

 この後、正儀は河内を拠点として京都奪還をうかがい、北朝方の内紛もあって何度か京の都を奪還することにも成功する。


 正平22年・貞治6年(1367年〉、正儀は南朝方の代表として北朝方と和平交渉を行うが、後村上天皇が「北朝の降伏」に固執したため、破談に終わる。

 正平23年・応安元年(1368年)、対北朝強硬派であった後村上天皇が崩御、寛成親王が即位して長慶天皇となるが、天皇は後村上帝以上の対北朝強硬派であったという。

 南朝に立場をなくした正儀は、正平24年・応安2年(1369年)、3代将軍・足利義満を後見する室町幕府の管領・細川頼之を通じて降伏、河内国の守護に任じられた。

 応安6年・文中2年(1373年)に南朝方の行宮襲撃(河内国天野)にも力を貸しているが、康暦元年・天授5年(1379年)に管領・細川頼之が失脚、北朝での立場も悪くなり、弘和2年・永徳2年(1382年)、南朝に帰参、参議に任じられた。


 その後の正儀の動向は不明であるが、楠木一族は、明徳3年・元中9年(1392年)の南北朝合一後も、しばしば後南朝の一員として働き続けた。


正儀の嫡子・正勝も祖父・伯父・父同様、名将と評されたがもはや劣勢は覆すこと叶わず楠木氏も大きく衰退する。南北統一後も反幕府の姿勢を貫き北畠満雅・日野有光が乱を起こした時には後南朝の一員として、また永享の乱では鎌倉公方足利持氏に味方して戦ったため、楠木氏は北朝の系譜を継ぐ朝廷及び足利幕府への反逆者として討伐されるが、正勝の子孫は伊勢に逃れ伊勢楠木氏を名乗った。戦国時代になると北畠氏配下のち本願寺の客将として織田信長と戦う。最後の当主・正信は徳川家康織田信雄に与力して豊臣秀吉と戦うが敗れて斬首され伊勢楠木氏は断絶した。

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