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曖昧さ回避編集

『天外魔境風雲カブキ伝』の登場人物については世阿弥(天外魔境)を参照のこと。


概要編集

生没1363?~1443?

 

世阿弥は「世阿弥陀仏」の略称で、幼名は鬼夜叉、二条良基から藤若の名前を送られる。通称三郎、実名は元清

大和猿楽の結崎座所属で、能の大成者でもある父観阿弥の跡を継ぎ、二代目観世大夫となる。


生涯編集

幼年期編集

父・観阿弥が31歳のころに誕生。この時には既に観阿弥は結崎座の看板となっており、興福寺などから庇護を受けていたが、京都に進出。

幼少期から父と共に舞台に立ち1374年ごろに開催された公演(世阿弥は12歳)で、当時少年だった足利義満に見初められ、親子で義満の庇護を受けることとなる。

またかなりの美少年だったようで、特に義満の寵愛が深かった世阿弥は事あるごとに連れ回され、三条公忠の日記『後愚昧記』で「散楽は乞食(こつじき)の所行也」と苦言を呈されている。

また観阿弥からは、公家と並んでも劣らないほどの教養も叩き込まれ、当時の公家からの評判などは好意的だった。


青年期編集

世阿弥が20歳を越えた頃になると、父・観阿弥が亡くなる。

この頃には既に大人になっていた世阿弥は美少年の影も無くなってしまい、しばらく低迷期が続く。


応永元年(1394年)になり、若さや容貌に頼る段階から脱して一段上の芸を身につけ始める。その5年後の1399年に義満後援のもと3日間の肝心猿楽を催す。

これにより、世阿弥は能界の第一人者と世間に知らしめることになった。

その後も稽古を積み、少し年上のライバルでもあった犬王(道阿弥)の芸も取り入れ、成長していく。


絶頂期編集

義持の時代になると、父・義満の方針に反発し田楽能の名手である増阿弥を重用するようになるが、世阿弥が冷遇されることはなく、幕府お抱えの能役者として扱われた。

また義持の鑑賞眼は義満よりも厳しく、時には直接言ってくることもあった。世阿弥本人も『至花道』で「前の偉い人たちはいいところばかり口にして、悪いところは言わなかった。だがこの頃は見る目も肥えてきてちょっとしたミスもしてくる」と残している。

その批評に応えるべく更に芸を磨き、『花鏡』『三道』といった著作も残す。


60歳前後で出家。

この頃は世阿弥の絶頂期とも言え、後継に長男・十郎元雅(もとまさ)、次男・七郎元能(もとよし)、甥・三郎元重(もとしげ 養子説もあり)や娘婿・金春禅竹(金春太夫でもある)を抱えて、育成に熱を上げた。


暗黒期編集

義教は甥の元重を重用し、逆に世阿弥とその直系の元雅を冷遇。

その結果、観世両座とされるほど世阿弥派と元重派で分裂。永享2年(1430年)に次男・元能が出家し、2年後には元雅が死亡。この死は世阿弥にとってかなりのショックだったようで、「子ながらもたぐゐなき達人」、「祖父(=観阿弥)にも越えたる堪能」と追悼文『夢跡一紙』と書いている。

世阿弥の地獄はまだ終わらず、翌年には元重が正式に観世太夫となり、永享6年に佐渡に島流しとなる。

当時から佐渡への配流は、地位が高い人物か余程の罪状が無いとされることは無いのだが、それだけ観世太夫・世阿弥の存在が大きかったのである。しかし、この島流しに関する資料が世阿弥が書いた『金島書』以外に存在しないため、この時すでに世間からは世阿弥は忘れ去られていたらしいことが分かる。


その後、義教が暗殺され世阿弥にも恩赦が与えられるが、帰京できたかどうかは正確には不明。

8月8日、およそ81歳で死去。


作品編集

著書の中でも「能の本を書くこと、この道の命なり」と言うほど作劇に打ち込んでいた。

特に「高砂」や「八島」などが自作で40曲程度、改訂や作曲なら50曲以上を制作し、その多くが現在でも上演されている。

他にも最古の芸術論書とも言われることで有名な風姿花伝が特に有名。


関連タグ編集

 観阿弥 風姿花伝

 

初心忘るべからず:彼の残した言葉の中でもひときわ有名なもの。

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