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二の丸殿

にのまるどの

二の丸殿は戦国大名毛利輝元の側室。毛利秀就と毛利就隆の実母。毛利家家臣児玉元良の娘。生没年は元亀3年(1572年)- 慶長9年閏8月1日(1604年9月24日)。名は周姫(ちかひめ)。法名から清泰院とも呼ばれる。幼女時代から輝元に気に入られ、杉元宣の妻になるも強奪されて側室になったり、輝元が剃髪して以降に子供を儲けたりしている。

生涯

元亀3年(1572年)に出生。なお、天文22年1月22日(1553年2月4日)生まれの毛利輝元より19歳年下、永禄元年(1558年)生まれである輝元の正室である南の大方より14歳年下である。


兄弟には児玉元兼や児玉景唯、児玉元次が、姉妹に益田景祥の妻がいる他、毛利輝元の側室の一人である於松(羽根元泰の娘)とは親戚。乳母は久芳の局。


「古老物語」によると、幼少期が自宅門前で遊んでいたところ、美少女故に通りかかった輝元 の目に留まり、その後、輝元はしばしば元良の広島時代の自宅を訪問するようになる。輝元のこの行動を快く思わない元良は、天正12年(1584年)に13歳の周姫を杉元宣に嫁がせた。


ちなみに、夫となった杉元宣は前名を杉長相と名乗っており、天文22年(1553年)から弘治3年(1557年)の間に大内義長から一字拝領されたらしく、輝元よりも年上の可能性がある。


天正13年11月19日(1586年1月8日)には父の元良が死去する。また、夫となった杉元宣は天正14年(1587年)に小早川隆景の配下として豊臣秀吉九州征伐に従軍する。


一方で同じく天正13年(1585年)に輝元と南の大方との間に子供が授からなかったこともあり、養子として毛利秀元を迎えた輝元であったが、周姫を諦めることが出来ずに落胆していたところ、忖度した佐世元嘉が久芳の局らと共謀して、元宣が留守の間に強奪して輝元の側室とした。


これに立腹した九州征伐帰りの元宣は、天正17年(1589年)の大坂の豊臣秀吉への直訴を計画するが、事の重大さに気付いた小早川隆景により野上庄沖にある大島の船隠で殺害された。


不本意ながらも輝元の側室となった周姫は、広島城二の丸に住み「二の丸殿」として輝元の寵愛を受ける。なお、二の丸殿が未完成の広島城に早々に居住することとなったのは、輝元正室である南の大方の嫉妬によるものとされる。


側室になって以降、文禄4年10月18日(1595年11月19日)に広島城にて毛利秀就を、慶長4年(1599年)に竹姫を生む。


その後、関ヶ原の戦いに敗北した輝元は、慶長5年(1600年)に剃髪して幻庵宗瑞と称していた頃には二の丸殿は京都伏見にいたらしく、慶長7年9月3日(1602年10月17日)に京都伏見で就隆を出産している。


毛利家が転封により長門国と周防国以外を失ったことで広島城に戻ることができなくなる。また京都伏見から国元に戻って以降、萩城に入らずに周防国山口の覚皇寺に移った。慶長9年(1604年)8月1日に32歳で病死し、山口古熊の西方寺(現・山口市の善生寺)に葬られた。


二の丸殿が萩に入ることができなかったのは、やはり南の大方が許さなかったと言われているが、輝元が周防国山口の覚皇寺を仮の居所とし、萩城に移ったのが二の丸殿死去後の慶長9年(1604年)11月10日だったという事情もある。


明治以降に山口市の香山公園(瑠璃光寺)にある毛利家菩提所の裏に墓が移された。


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