概要
元々は越前国織田荘にある織田剣神社の神官を出自とする(異説有り)。同国の守護・斯波氏に仕え、1402年(応永9年)頃、常松(じょうしょう)が尾張守護代となり尾張に拠点を移した。
応仁の乱で斯波氏が分裂して争うと織田氏も岩倉家・清州家に分かれて対立、清洲織田家家老(弾正忠家)の織田信定・信秀父子が本家をしのいで台頭。続く信秀の子・信長が尾張と隣国を破り、1568年(永禄11年)に室町幕府13代将軍・足利義輝の弟・足利義昭を奉じて上洛を果たした。
信長は各地に柴田勝家、羽柴秀吉などの有力武将を派遣して対立する武田勝頼、浅井長政などの大名、本願寺や比叡山延暦寺などの寺社勢力を屈服・滅亡させ、将軍に据えた義昭を追放して幕府を滅亡させたが、1582年(天正10年)6月2日未明、重臣・明智光秀の謀反にあい自刃した(本能寺の変)。
信長の嫡男・信忠はこの変事に逃亡することなく二条御所にこもり明智勢を迎えて奮戦したあげく自刃し、織田氏の跡目争いを羽柴秀吉に利用されて分裂、急速に没落する原因となった。
なお、江戸時代においては信長の次男・織田信雄の子孫が出羽国・天童、丹波国・柏原でそれぞれ2万石、信長の弟織田長益の子孫が大和国芝村・同国柳本でそれぞれ1万石を領して存続した。各家は明治時代において子爵級の華族になった。