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概要編集

原昌胤は人馬奉行であった原昌俊の子として、1530年に産まれる。武田家には、原虎胤という武将がいるが、虎胤の家系が下総千葉氏に対して、昌胤の家系は美濃土岐氏と一族が違う為、昌胤の血縁関係はない。


人馬奉行とは、合戦において陣や陣を引く場所を決めたり、作戦内容に合わせ兵卒の配置や役目決めを行う、言わば人事課と土木科を足したような仕事である。


1550年昌胤は昌俊の跡を継ぎ人馬奉行の役職と騎馬120騎を受け継ぐ。1556年には朱印奏者として活動をしており、跡部勝資山県昌景らと並ぶ重臣となり、内政や外交で力を発揮する。軍事面においては、西上野侵攻三増峠の戦い三方ヶ原の戦いでは武田軍を勝利に導く働きをする。


1573年信玄が亡くなり、勝頼が家督を継ぐと信玄側近として勝頼と接触する機会の多かった昌胤は、勝頼と良好な関係を築くことに成功する。


1575年の長篠の戦いでは従来は退却を主張したとされるが、近年では決戦を主張したとも言われている。昌胤は武田軍を勝利導くべく配置を決めたが、武田軍は未曾有の大敗を喫し、昌胤は己の未熟さを食いて敵陣に突撃して討死したという。享年46

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