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北条高広

きたじょうたかひろ

北条高広は、関東・北陸の戦国武将。「私は「きたじょう」だぞ、「ほうじょう」じゃない」と、言ったかどうかは定かではない。(1517年-1587年)
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略歴

永正14年(1517年)、越後の刈羽郡北条(きたじょう)を治める北条高定の子として生まれる。高広が生まれた当時の北条氏の家督は、庶流である越後安田氏が兼任しており、高広も時の当主である安田広春の養子となっていたが、その広春が没すると北条氏の家督を高広が、安田氏の家督を同じく養子であった安田景元が継承する事となる。こうした経緯からか、その後も高広と景元の折り合いはひどく悪かったという。

実父・養父と同様に当初は越後の長尾氏に仕えるが、天文23年(1554年)に甲斐の武田晴信(信玄)と通じ、主君である長尾景虎(上杉謙信)に反旗を翻す。安田景元がいち早く長尾氏に報せた事もあり、この反乱は程なくして鎮圧されたが、その後も以前のように長尾氏の奉行として仕え、永禄年間には上野の厩橋城を与えられ、関東方面の政治・軍事を任せられるなど、景虎(謙信)からはそれなりに厚遇されていたようではある。

ところが永禄10年(1567年)、今度は小田原北条(ほうじょう)氏康につく。その後上杉氏と小田原北条氏との間で同盟が結ばれたのに伴い再び帰参を許され、天正2年(1574年)に家督を嫡男の景広に譲り隠居の身となる。謙信死後の「御館の乱」では、親子共々上杉景虎を支援したものの最終的に景虎は敗北し、実父の高定や嫡男の景広も失ってしまう。

その後は甲斐の武田勝頼、その滅亡後は滝川一益、さらにその没落後は再び小田原北条氏政と、転々と主家を変えて流動的な情勢の北関東にて生き残りを図るが、天正10年(1582年)に小田原北条氏を離反した真田昌幸への出兵を拒否し、三度上杉氏に帰参。これに対する報復として小田原北条軍は厩橋城に攻撃を仕掛け、高広もこれに応戦するも敗退し厩橋城を追われてしまう。後に家督を息子の一人で同名の高広(高明とも)に譲っているが、結局越後に戻れぬまま天正15年(1587年)に死去したとされる。

人物

「器量、骨幹、人に倍して無双の勇士」と称えられるなど、少なくとも優秀以上の実力は持ち合わせていたようで、度々の寝返りにもかかわらずその都度許されたのもその実力の高さに因るところが大きいとされる。一方で「家中一の粗忽者」とも評されており、その点は上杉謙信も気を揉むことが多かったという。

しかしやはり目立つのは『北条』と書いて「きたじょう」と読む事だろうか。なまじ小田原北条氏とも度々関わりがある事もあり、そのややこしさにますます拍車をかける形となった。小田原北条氏についた際には、流石にややこしいから「喜多条に変えろ」と改名を強制させられてもいる。後から北条を名乗ったのは明らかに小田原の方だが、小田原北条氏は理由が理由だけに仕方ない。

歴史的には小田原北条(ほうじょう)氏よりも越後北条(きたじょう)氏の方が遥かに古く、鎌倉幕府創立の功臣・大江広元の子孫である越後毛利氏の流れを汲む家系であり、毛利元就らを輩出し中国地方で名を馳せた安芸毛利氏も祖を同じくする。

殿といっしょの北条高広

直接は登場しないが、彼を見て誰もが思うであろう「『きたじょう』とか紛らわしい」事をネタに(そのネタしかないだろう、というネタ)弄られるが、謙信に背いた所で信玄と外交関係を結ぶがあっさり敗れて、以降出番は無い。

戦国大戦の北条高広

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概要

初期バージョンである「1560尾張の風雲児」から上杉家の武将として参戦。レアリティはRで、二つ名は「反骨の勇士」。
「1560尾張の風雲児」では騎馬隊、「1570魔王上洛す」より兵種が槍足軽に変更されている。低めの統率に気合の特技を持つ、上杉らしいスペック。ツンツンと立った黒髪に黄色のメッシュの入った髪型はどことなくイワトビペンギンを髣髴とさせる。
所持計略『反逆の狼煙』は戦場にいる味方ランダム1部隊を撤退させることで武力を大幅に上げるという、何度も上杉に反旗を翻した高広らしい計略である。
いつか、越後の龍を ぶっ倒してやるぜ!

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