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快川紹喜

かいせんじょうき

快川紹喜とは、戦国時代の高僧の1人。 『心頭滅却すれば、火もまた涼し』の諺の元になった人物として有名。1502~1582

概要編集

快川紹喜は1502年に美濃国に産まれたとされる。快川の一族は土岐氏の流れを汲む武士の一族だったとされているが快川の前半生はよく分からないことが多い。


1513年には出家し、崇福寺の僧になったと伝わる。また、稲葉一鉄は幼少期に寺に預けられていた頃、快川から学問を教わったと伝わる。


斎藤義龍が宗教を巡る政策に反発した快川は一度、美濃から離れている。


1564年に、甲斐の武田信玄に招かれて恵林寺の住職となり、美濃方面の外交顧問も務める。


1573年に信玄が亡くなり、『我が死は3年伏せよ』と遺言した為、1576年に信玄の葬儀を行う。


1581年には正親町天皇から国師号を賜る。


しかし1582年の武田征伐の際に、織田信長信忠父子が敵対した足利義昭の家臣や六角氏の残党が恵林寺に逃げ込んだことから引き渡しを要請するが、快川は寺は聖域であるからと引き渡しを拒絶。織田親子は快川の振舞いに激怒し、恵林寺を軍勢で包囲すると、焼き討ちを行い、快川は壮絶な焼死を遂げた。


戦国大戦編集


「心頭滅却すれば、火もまた涼し…」


武田家所属の1,5コスの弓足軽として、メイン画像のイラストで実装。

レアリティはucで武力は4とやや低いが、統率が7と高く、気合と防柵持ちであることから防衛能力が非常に高い。


計略はやや特殊なのダメージ計略の「心頭滅却」。

知力1は確殺、知力2の兵力を8割削ることが出来、吹き飛ばし効果付きと通常の火牛の計と威力は変わらないが、本計略は範囲が自身を起点とした正方形になっており、自身の撤退と味方にダメージを与える代わりに、士気4と非常に士気が安くなっているのが売りである。

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