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寿桂尼

じゅけいに

寿桂尼とは、戦国時代の尼僧・政治家。駿河の大名・今川氏親の正室で、彼の晩年から孫の氏真までの四代に亘って、今川氏の政務を補佐。その働きぶりから「女戦国大名」として数えられる事もある。(生年不詳-1568年)
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概要編集

藤原氏は勧修寺流の流れを汲む、中御門家の出身。16世紀初めに駿河の大名・今川氏親の下に正室として嫁ぎ、彼との間に氏輝義元瑞渓院北条氏康室)らの子女を設けた。氏親が晩年病がちとなった頃よりその政務を補佐し、今川氏による分国法「今川仮名目録」の編纂にも携わったとされる。

氏親が大永6年(1526年)に没すると、後を継いだ氏輝が若年だった事もあり、その治政の初期は寿桂尼自ら公文書を発給し国政を主導。また自身が公家の出である事からその伝手を活かし、甲斐の武田晴信と三条家の娘(三条の方)との縁組を斡旋したとも伝わる。


ところが天文5年(1536年)、当主として成長した氏輝、そしてその弟の彦五郎が相次いで死去。息子二人に先立たれるという悲運を嘆く間もなく、寿桂尼は後継者争いという難題に直面する事となる。この時家督継承者として太原雪斎ら重臣によって白羽の矢が立てられたのが、氏輝たちの実弟である栴岳承芳(後の義元)であったが、一方で氏親の外戚として影響力を持っていた重臣・福島越前守らは、同氏出身の側室所生の玄広恵探(今川良真、承芳の義兄に当たる)を擁立し、対立姿勢を露わにした。

寿桂尼による説得も失敗に終わり、両者の対立は遂に武力衝突にまで発展。恵探派による今川館の襲撃こそ失敗に終わるも、その後も花倉城に籠りなおも抵抗を続け、戦火は遠江方面にまで飛び火する事となった。しかし北条氏の支援を取り付けた承芳派の攻勢は激しく、恵探は遂に自害を余儀なくされ、福島越前守らも逃亡(の後甲斐で討たれたとも)という形で終息を見た(花倉の乱)。

この時寿桂尼は実子の承芳の側に付いていたとされる一方、『高白斎記』などの史料におけるこの事件の記述などから、実際には恵探の側に与していたのではないかという指摘もなされている。


ともあれ、その後も義元やその子の氏真の治世下において引き続き政務を補佐し、今川氏の最盛期と衰退とを見届け続けた。後世洞松院赤松政則室)などと並んで「女戦国大名」と称されるまでの働きを見せた寿桂尼も、寄る年波には勝てず永禄11年3月14日(1568年4月11日)に逝去。婚姻時の年齢から70-80台で没したと推測されている。

「死しても今川の守護たらん」との意志から、今川館の鬼門(東北)に位置する龍雲寺に埋葬された彼女の思いも空しく、同年末には武田・徳川による今川領への侵攻が始まり、死後わずか1年余り後に戦国大名・今川氏の命運も尽きる事となった。


創作作品編集

『姫の戦国』

永井路子の著による小説作品。京より今川氏に嫁いだ悠姫(寿桂尼)が、公武の違いや激動の世に翻弄されながらも「尼御台」として逞しく成長していくまでの姿を描く。


NHK大河ドラマ

これまでに以下の3作品にて、主要な登場人物として登場。

『武田信玄』では史実の没年を超えて今川氏の滅亡をも見届け、『風林火山』では雪斎と並んで有能な策謀家としての側面が描かれ、そして『直虎』では主人公・井伊直虎にとっての強大な敵であると同時に最大の理解者と位置づけられるなど、いずれの作品においても印象的な役割を担う事が多い。


関連タグ編集

夫:今川氏親

息子:今川氏輝 今川義元

孫:今川氏真

太原雪斎 女傑

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