戦国時代の尼僧・政治家。駿河の戦国大名・今川氏親の正室。赤松政則正室の洞松院などと並んで「女戦国大名」と称される。
概要
生涯
生年不祥。平安時代中期には紫式部・大弐三位らを輩出し上杉家などと同じく藤原北家高藤流の勧修寺流の流れを汲む中御門家の出身。
16世紀初めに氏親の下に正室として嫁いだ。氏親が晩年、中風に罹患し病がちとなった頃よりその政務を補佐し、今川氏による分国法「今川仮名目録」の編纂にも携わったとされる。
氏親が大永6年(1526年)に没すると、後を継いだ長男・今川氏輝が若年だった事もあり、その治政の初期は寿桂尼自ら公文書を発給し国政を主導。また自身が公家の出である事からその伝手を活かし、甲斐の戦国大名武田信虎の長男・晴信と三条公頼の娘(三条の方)との縁組を斡旋したとも伝わる。
ところが天文5年(1536年)、氏輝と彦五郎が相次いで死去。息子二人に先立たれるという悲運を嘆く間もなく、寿桂尼は氏輝の後継者争いという難題に直面する事となる。この時家督継承者として太原雪斎ら重臣によって白羽の矢が立てられたのが、氏輝たちの実弟である栴岳承芳(後の今川義元)であったが、一方で氏親の外戚として影響力を持っていた重臣・福島越前守らは、同氏出身の側室所生の玄広恵探(氏親の三男)を擁立し、対立姿勢を露わにした。
寿桂尼は説得するも失敗に終わり、両者の対立は遂に武力衝突にまで発展。恵探派による今川館(駿府城)の襲撃こそ失敗に終わるも、その後も花倉城に籠りなおも抵抗を続け、戦火は遠江方面にまで飛び火する事となり今川了俊直系の子孫である堀越氏(遠江今川氏)などは恵探に味方した。しかし北条氏綱の支援を取り付けた承芳派の攻勢は激しく、恵探は遂に自害を余儀なくされ、福島越前守は逃亡(の後甲斐で討たれたとも)し越前守の子(のちの北条綱成)も北条家に亡命した(花倉の乱)。
この時寿桂尼は実子の承芳の側に付いていたとされる一方、『高白斎記』などの史料におけるこの事件の記述などから、実際には恵探の側に与していたのではないかという指摘もなされている。
ともあれ、その後も義元を補佐し義元が桶狭間の戦いで織田信長によって討死した後は孫の今川氏真を補佐した。しかし、これ以降の今川氏は「三州錯乱」(松平家康の独立)や「遠州惣劇」(井伊直親らの反乱)が発生し、武田氏による同盟破棄もあり今川氏は大きく斜陽に向かっていく。といった苦難を味わった。しかし、寿桂尼も寄る年波には勝てず永禄11年3月14日(1568年4月11日)に逝去。婚姻時の年齢から70-80台で没したと推測されている。
今川氏の最盛期と衰退双方を経験し上杉顕定・北条氏綱・北条氏康・武田信虎・武田信玄・織田信秀・織田信長・徳川家康といった大物たちとの戦いを見届けた。
「死しても今川の守護たらん」との意志から、今川館の鬼門(東北)に位置する龍雲寺に埋葬された彼女の思いも空しく、同年末には武田・徳川による今川領への侵攻が始まり、死後わずか1年余り後に戦国大名・今川氏の命運も尽きる事となった。
血縁
夫:今川氏親
孫:今川氏真
フィクションにおける寿桂尼
小説
- 姫の戦国
作者は永井路子。京より今川氏に嫁いだ悠姫(寿桂尼)が、公武の違いや激動の世に翻弄されながらも「尼御台」として逞しく成長していくまでの姿を描く。
NHK大河ドラマ
史実以上に長生きし今川氏の滅亡をも見届けた。
雪斎と並んで有能な策謀家としての側面が描かれ主人公の山本勘助や勘助の主君・信玄と渡り合った。
主人公・井伊直虎にとっての強大な敵であると同時に最大の理解者でもある。