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上杉顕定

うえすぎあきさだ

室町時代後期から戦国時代にかけての武将・守護大名。山内上杉家11代当主。
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概要編集

上杉顕定とは、山内上杉家11代目当主で房定の次男。関東争乱期の40年以上に渡って関東管領を務めた。後に弟・房能が討たれると報復の為に越後に入城するが、最後は反攻に遭って自刃した。(1454年-1510年)


生涯編集

関東管領就任編集

1454年、越後上杉家・上杉房定の次男として誕生した。兄は上杉定昌(1453年-1488年)、弟に上杉房能(1474年-1507年)がいる。通称は四郎。出家後の名は可諄。


1466年、山内上杉家先代当主・上杉房顕が武蔵五十子陣にて陣没。その上男子がいなかった。そこで房定の子を山内上杉家の当主に迎えようとした。


房定は一度は反対するが、室町幕府第8代将軍・足利義政から房定の子を後継とするよう命じられ、次男である龍若(顕定の幼名)が山内上杉家の家督を継いで当主となった。


享徳の乱編集

時は享徳の乱の最中であり、顕定は足利成氏と関東の覇権をかけて五十子の戦いなどで争い、1471年には古河御所を占領し、勝利した。


ところが、家宰人事を巡って白井長尾家の長尾景春が反乱を起こして成氏と組むと1477年正月には五十子陣からも撤退する羽目になってしまった。そこで顕定は分家の扇谷上杉家当主・上杉定正と共に1478年正月に幕府と成氏の和睦を取り持つ事を条件に古河公方と和睦に成功した。その後、景春の反乱は太田道灌の活躍によって鎮圧されたが、これ以降扇谷上杉家が台頭するようになった。


1482年に顕定の父・房定の仲介で幕府と古河公方の和睦が成立しここに30年に及んだ享徳の乱は終結した。しかしこの頃から定正との対立が生じ始める。


扇谷上杉家との抗争編集

台頭著しい扇谷上杉家の戦力を削ぐべく、顕定は定正に讒言した。この結果、1486年に太田道灌は曽我兵庫(曽我祐重の父)によって暗殺された。これが原因で扇谷上杉の戦力は低下し、大半の武将が山内上杉家に寝返っていった。


そして1487年に長享の乱が起こる。翌年には両者の抗争は本格化し顕定を支援していた兄・定昌が白井で自害に追い込まれるなど当初は定正が優勢だったが、父・房定の支援や実力の差もあって逆転。


そして1504年、一度は今川・扇谷上杉連合軍に敗れる(立河原の戦い)ものの、最終的に弟・房能の援軍によって反撃して上杉朝良を降伏させた。これにより長享の乱の勝者となった。


その後は憲房(上杉憲政の父)を差し置いて顕実(足利成氏の次男)を後継者に指名し、更には足利政氏と長子の足利高基が不和となると、顕定はこれを憂えて出家し可諄と号し両者の仲介に立つ等活躍した。ところが・・・・。


長森原に散る編集

1507年、故郷越後で事件が発生した。それは弟で越後守護だった房能が守護代で越後長尾家の長尾為景(長尾晴景上杉謙信の父。長尾景春の従甥。)に謀反を起こされ、更に為景は房能の養子の上杉定実を擁立。房能は兄・顕定の元へ落ち延びる矢先、討たれてしまったのである。


これに怒った顕定は翌年に越後に攻撃を仕掛けて為景と定実を佐渡国に追放し、大義名分として府内を制圧する事に成功したのであった。

しかし内政は非常に強硬でうまくいかず、国人衆の反発を買った。そして翌年、為景らが越後へ上陸して反撃を開始。顕定は1510年、撤退を開始した。


だが、為景と高梨政盛(為景の外叔父)連合軍の追撃は苛烈だった。そして高梨勢に長森原で包囲され顕定は自刃した。享年56歳。(長森原合戦)


その後、山内上杉家は後継者である顕実と憲房の内乱によって弱体化するのであった・・・。

また古河公方家もこのことで政氏と高基が再び争い、さらに両者の争いの隙に政氏の次男・足利義明が父と兄に叛き自立するなど関東における顕定の死の余波は大きかった。


余談ながら顕定は生涯、官途名を使用せず通称の四郎で通した。以降、山内上杉家の当主は憲政の代まで顕定に倣って官途名よりも通称を優先的に用いることが慣例となった。


信長の野望編集

現状は蒼天録PKのみ。弟と異なり知略以外は70以上を保っている。

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