内乱の苦闘
1444年、大友家第15代目当主・大友親繁の長男。弟に第18代目当主となった大友親治がいる。幼名は房丸とも。
1473年に親繁から家督を譲られて大友家第16代目当主として就任。1477年には足利義政から家督の継承を正式に認められ、豊後・筑後両国の守護に任じられた。しかしこの以前から大友家内部では混乱が続いていた。
それは政親の妻は大内政弘(義興の父)の妹である為に大友家は度々大内家の干渉を受ける事となり、政親は干渉を受ける事を嫌っていた。(反対に実子・義右は親大内派)このような混乱もあって、政親は11年後の1484年に大友家当主の座を義右に譲って隠居した。
従兄弟・大友親実の暗躍
しかし隠居後も大内家の干渉は止まる事は無く、また伯父で第13代目当主・大友親綱の子である大友親実(大聖院宗心)が政親と義右の離間を何度も図り続けた為に家中は政親派と義右派に分裂する事となった。
政親は1487年に義右と一度和解する事に成功するが、まもなくして政親の弟である親胤が謀反を起こした。政親は親治に命じて親胤の謀反を鎮圧させるが、まもなく親実が「叔父の親胤殿の謀反は父の政親殿の差し金だ」(意訳)と義右に言った事で、これを信じた事で再び親子の対立も再燃してしまったのであった。
細川政元主導で明応の政変が勃発した際には、政親は足利義高(義澄)を、義右は足利義材(義稙)を支持し、この後も政親派の田原親宗が義右を一時追放するなど混乱が続いた。
非業の死
1496年5月13日、内部争いに嫌気がさした政親は筑後へ退去した。しかし筑後に退去後の14日後に同年4月頃から病を得ていた実子・義右が37歳で急死。
前年に父・政弘が逝去して大内家当主になっていた大内義興は従弟・義右の死に激怒して「義右が死んだのは彼の実父・政親が毒殺した」と判断し、政親討伐軍を起こす事となった。この知らせに驚愕した政親は大内氏と戦う準備をすべく立花山城を目指そうとした。
しかしその矢先に遭難。挙句の果てに大内領内の赤間関に到着した事で大内家臣・杉信濃守に捕縛され、長門舟木地蔵院にて処刑させられた。享年52歳。北九州における主勢力だった大内家から妻を迎え、その間に息子・義右が生まれた事は皮肉にも彼の悲劇となってしまったのだった・・・。
家督は実弟・親治が継いだ。