親大内派の実子
1459年、大友家第16代目当主・大友政親の嫡男として誕生。幼名は鷹房丸。初名は親豊、後に足利義稙の偏諱を受けて材親に改名し、更に義右と改名している。
1484年に大内家の干渉を受ける事を嫌った父・政親から家督を譲られて大友家第17代目当主として就任。しかしなおも大内家の干渉を続いた為に政親は大内家出身の子である義右を疎ましく感じる様になり、義右は叔父の大内政弘の元へ逐電する事となった。
1487年には父の政親と和解し、再び大内家から大友家に帰還した。
再度の敵対
しかし1489年、叔父の日田親胤が謀反を起こす事件が発生。この事件はもう1人の叔父である親治の尽力もあって鎮圧されたが、まもなくして大友一門の大聖院宗心(大友親実)が義右の元にやってきたのだった。
そして宗心は「叔父の親胤殿の謀反は政親殿の差し金である」(意訳)と耳打ち。その結果、義右は激高して再び父と対立。4年後に起こった明応の政変に関しては義右は従弟の大内義興の元、足利義稙を支持した。(この時に名前の偏諱を2度行っている。)
謎の死
1494年には政親を支援する田原親宗に府内へ侵攻されてしまうが、義右はこれを撃破した。
1496年4月頃から病を得て養生する事となったが、1ヶ月後の5月13日に父の政親が筑後に逃走する等事態は更に悪化する中で義右は14日後の5月27日に突如として37歳で世を去った。表面上は病死とも伝わるが、公家の近衛政家の日記によると「対立していた父政親に毒殺された」という噂が流れたとも伝わっている。
家督は父の政親が再び継承するが、前述の噂によって大内義興が挙兵。政親はまもなくして大内家に捕縛されたのち、処刑された。この為に政親の弟にして義右の叔父である親治が家督を継承する事となった。