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藤田信吉

ふじたのぶよし

藤田信吉とは、関東・上越地方の戦国武将。元は北条氏家臣であったが後に離反、新たに仕えた上杉景勝の元で数々の武功を挙げるも、徳川家康への対応を巡る家中の対立の末に出奔を余儀なくされた。(1559年-1616年)
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概要

小野篁の流れを汲む秩父地方の名門国人・藤田氏の出身。父(異説あり)の藤田康邦が北条氏より養子を迎えてその傘下に入っていた事もあり、信吉も当初は北条氏の家臣として仕えていたが、実兄の暗殺などを巡る遺恨などから離反した後、武田氏・滝川氏・上杉氏と主家を転々とした。

特に上杉氏の元では新発田重家の乱の鎮定などで多大な武功を挙げ、外様ながらも家中で重きをなしたが、豊臣秀吉薨去後に台頭した徳川家康への対応を巡り、避戦派として事態収拾に尽力していた信吉は、主戦派の直江兼続らとの対立の末に追放も同然の形で上杉家中より出奔、後に出家の身となった。

その後、江戸幕府の成立に伴い改めて大名として取り立てられるが、大坂夏の陣での不手際を原因に改易され、不遇のままに波乱に満ちた生涯を終えた。


乱世の中にあって巧みに生き残りを図り、前述したように数々の武功にも恵まれるなど、必ずしも見るべきところのない訳ではない武将なのだが、信吉にとって不運であったのはやはり直江兼続との対立であろう。この対立によって上杉家中を追われたのみならず、近代に入ってからも兼続の再評価に伴い、彼と対立する立場となった信吉が(その主張や動向の是非に関わらず)変節漢・奸物と見做されるなど、その影響は死後数百年経った今なお尾を引く格好となっているのである。


生涯

関東国人として

前述の通り通説では藤田康邦が父と扱われているが、実は信吉の生まれた永禄2年(1559年)の時点では既に故人であり、この通説を額面通りに受け取り難いのが実情である。そのため康邦の孫、もしくは甥であろうという見方や、藤田一族の一人である用土業国の子であるという説も呈されている。


前述の通り、信吉が生まれた頃の藤田氏は北条氏より迎えた養子・北条氏邦(藤田氏邦)が家督を継いでおり、信吉ら本来の藤田一族は用土氏を称してこれに仕える立場にあったが、やがて信吉の兄である用土重連(藤田重連)と氏邦との間で確執が生じ、天正6年(1578年)に氏邦が重連を謀殺するという事態にまで至った。

当然、この一件に対する信吉の遺恨は並々ならぬものがあったようで、翌々年の天正8年(1580年)、旧知の真田昌幸を通じて北条氏より離反、沼田城を武田氏に引き渡しその傘下に入った。武田氏の下では上州攻略の功により、沼田城の東に新たに築かれた沼須城主に任ぜられた他、海野信親武田信玄次男)の娘を娶るなどの厚遇を受けた。用土氏から藤田氏に復したのもこの頃のことである。

しかし武田傘下の時代も長くは続かず、武田氏滅亡後は新たに上州を治めることとなった滝川一益(織田氏重臣)に仕えるが、程なくして本能寺の変が勃発し滝川氏の上州支配にも俄かに暗雲が立ち込めることとなる。信吉はこれを好機と見て長尾伊賀守(※)と通じ、越後の上杉氏からの軍事支援を取り付け沼田城攻略に打って出たが、攻略半ばのところで一益率いる大軍の北上の報せに接しこれを断念。信吉も已む無く越後へ落ち延びていった。


(※ この人物の事績については不明な部分も多いものの、天正~文禄年間に樺沢城や直路城を拠点とし、関越の国境地帯にて上杉景勝方として活動していたこと、実名が「景忠」と見られることなどが、同時代の史料などから明らかにされている)


上杉家臣として

越後へ逃れた後、信吉は正式に上杉景勝に仕えることとなった。当時、上杉氏は滅亡した武田旧臣・旧領の取り込みにも力を入れており、また藤田氏は前述の通り北条氏に服属していたとはいえ、元来は山内上杉氏(当時は景勝がその家督も継承していた)の家臣であるなど、藤田氏とも少なからず縁のある存在でもあった。

上杉氏家臣として、信吉は様々な合戦に参加し多大な功を挙げた。その最たるものが、当時上杉氏を大いに悩ませていた新発田重家の乱の鎮定である。まず天正13年(1585年)、新発田方の重要拠点であった新潟・沼垂の両城を調略によって奪取。この両城の確保によって新発田方は水利権・補給路を断たれ、周辺諸国の情勢の変化と併せてそれまで対新発田戦で不利な状況にあった上杉氏には追い風となった。

さらに天正15年(1587年)に重家の本拠・新発田城攻略が始まる中、蘆名氏より派遣された金上盛備の軍勢を撤退に追い込み、新発田方への助勢を阻んだ。また重家の義弟である五十公野信宗が守る五十公野城の攻略にも当たり、家臣らへの調略などを経てこれを落城させるに至るなど、一連の反乱鎮定における信吉、そして彼の率いる武蔵衆の戦功は家中においても群を抜いたものがあった。

その後も佐渡本間氏の討伐や、小田原征伐にも従軍。後者においては元々関東を熟知した人物なのもあってか、先鋒を任され上野・武蔵の北条方拠点の攻略に当たった。このうち鉢形城を守っていたのは因縁浅からぬ北条氏邦であり、信吉もその攻略軍に参加し降伏の説得にも当たった他、開城後には氏邦の助命に尽力したと伝わる。


ともあれこうした数々の戦功を背景に、上杉氏の会津移封の後には会津領西端の要衝で津川城代として、1万石を超える知行をも得るなど家中でも重きをなしていた信吉であったが、その立場を大きく揺るがす事態が、慶長3年(1598年)の豊臣秀吉薨去に伴う政情不安と共に迫りつつあった。

翌々年の慶長5年(1600年)正月、信吉は主君・景勝の代理(前年秋に領国・会津に戻ったばかりで、領国経営に忙殺されていた)として、新年の祝賀のため上洛。この時、景勝と並び豊臣政権内の有力者であった徳川家康からも銀子や名刀を贈られるなど、少なくともこの時点では上杉と徳川との関係は比較的良好なものであった。

ところが、越後の堀秀治ら周辺の大名らの訴えにより、上杉氏に叛意ありとの疑いが持ちあがると、事態を憂慮した家康からも「上洛の上申し開きをすべし」との使いが出されることとなる。上杉家中では直江兼続を筆頭とした主戦派が、家康への敵対姿勢を鮮明に打ち出しつつあったが、信吉はそうした主戦派に与せず、景勝に対して安易に挑発に乗らぬよう諫言する一方、自らもまた大坂に赴いて家康に対する弁明に努めるなど、両者間の衝突回避に向けた取り組みに腐心していた。

しかしこうした信吉の動きを苦々しく思ったのか、兼続は信吉らを「家康に買収されて内通している」と景勝に讒言、これによって信吉ら避戦派は立場を失う格好となった。生命の危機を感じた信吉は、同じく避戦派であった栗田国時らと共に上杉家中からの出奔を決意。その後国時らが追手に捕捉され落命する中、信吉らは辛くも会津領内からの脱出に成功し、江戸の徳川秀忠の元へ逃げ込むこととなるのである。


信吉の奔走にも拘らず、この一件も含めた上杉氏の数々の対応は、徳川氏との対立を決定的なものとし、程なくして家康主導による会津征伐も実行に移された。その後の上杉氏の辿った道を思えば、ここが上杉氏にとっての分水嶺であったことは言うまでもないだろう。


西方藩主として

出奔後、信吉は京都の大徳寺にて出家し「源心」と号した。これにより歴史の表舞台から退いたかに見えた信吉だったが、関ヶ原の戦いの後に家康より取り立てられると、下野南部の都賀郡西方(現在の栃木市)に領地を与えられた上で西方藩1万5千石を立藩することとなった。これに伴い信吉も還俗し、名を「重信」と改めている。

かくして大名に列した重信は、その後も領内の整備や佐竹義宣の出羽久保田(秋田)移封に伴う水戸城の接収、大坂夏の陣においては館林藩主・榊原康勝(康政の嫡子)の軍の軍監など、様々な役目を勤め上げた。しかし、この大坂夏の陣では軍監たる重信の判断ミスによって、館林勢は木村重成らの猛攻を受け2度に亘る大損害を被り(※)、さらには戦功を巡っての不満から失言があったことなどを理由として、戦後改易に処され信州木曽奈良井宿長野県塩尻市)へと配流の身となった。


重信が奈良井にて58年の生涯を閉じたのは、それから1年余り後の元和2年7月14日(1616年8月26日)のことであった。死因については病死もしくは自害と伝わっているが、近年では後者が有力と見られている。亡くなった時点で嗣子はなく、藤田氏も重信の死と共に断絶を迎えたのであった。

時代の荒波に翻弄されつつ一定の成功を収めながらも、その度にその栄誉に浴し切れないまま辛酸を嘗めさせられ続けた、重信の生涯の幕引きもまたその例に漏れなかったのである。


(※ 実際にこの時の奮戦が元で、かねてより持病を抱えていた康勝は戦後にそれを悪化させ早逝。館林藩はあわや改易の危機を迎える事態にまで陥ってもいる)


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