概要
1539年に芋川正章の長男として誕生した。
のちに武田晴信(信玄)が信濃へと侵攻すると、正章は武田家に降伏した。
武田家臣
信玄の時代には、対上杉謙信に対する防衛を担当した。
しかし、信玄の没後に跡を継いだ武田勝頼は1575年に謙信と和睦。さらに謙信の没後、勝頼は異母妹・菊姫を謙信の後継者・上杉景勝と結婚させて1579年に武田と上杉の同盟を締結した。これにより武田と上杉は友好関係となり、親正の領地は安定化した。
だが1582年、織田信長・徳川家康・北条氏政による甲州征伐により武田勝頼は滅亡。北信濃は織田家臣・森長可が支配することになったが、親正は長可に屈しなかった。
上杉家臣
親正は、織田軍に対抗するべく上杉景勝に仕官。彼の協力もあり、森長可に対して一揆を起こすことに成功(芋川一揆)。しかし長可の反撃に遭い、劣勢に立たされる。
こうして森長可率いる織田軍は上杉領越後へと侵攻し、他の織田軍(柴田勝家・滝川一益・新発田重家)も上杉領へと侵攻。景勝と親正は窮地に陥った。
だが、織田信長とその嫡男・信忠が本能寺の変で横死し、織田軍が上杉攻めを一時中断したため景勝と親正は急死に一生を得た。
1584年、徳川軍の小笠原貞慶が上杉領へと侵攻した際には彼の軍勢を撃破し領土防衛に成功。
1600年、徳川家康による会津征伐の直前に大森城・栗田国時が徳川と内通して処刑されると、大森城へと配置換えされた。
1608年に没した。養子で甥の元親は親正の所領を継ぎ、後から生まれた実子・綱親は元親の旧領を継いだ。