概要
内空閑は「うちのこが」、或いは「うちくが」と読む。
内空閑氏の祖は伊賀国の服部氏で、室町時代の初めに肥後国の山本郡は内空閑に下向し、菊池氏に属した際に内空閑を名乗ったとされる。大友氏が菊池氏へ事実上の乗っ取りを企図した際に、隈部氏や城氏ら他の菊池旧臣と共に大友従属の独立勢力となった家である。
内空閑鎮房は隈部親永の5男として誕生したが、内空閑氏の養子となって相続した人物である。
内空閑8代当主の鎮資が亡くなった際、子の鎮照はまだ幼少であることから鎮房が養嗣子となって家督を継いだとされるが以下の別説もある。
鎮資には嗣子が無かったため鎮房が養嗣子となったが、後に鎮照が誕生したため家中が対立により二分されたものの、同じ肥後豪族の城親賢が仲介し取りなしたというもの。
何れにしても、鎮房が家督を担っていたのは間違いないようである。
肥後国人一揆
天正15年(1587年)7月、実父の隈部親永らが佐々成政の検地に反発・一揆し反乱を起こした際はこれに同調し、鎮房が内空閑城に、義弟の鎮照が霜野城に籠城した。
隈本城を出撃した佐々勢が、隈部氏の隈府城を攻略できずにいる間に隈本城が攻撃を受けたため退却した折に、内空閑勢はこの帰途を攻撃し佐々成政の甥である佐々成能を討ち取っている。
その後に内空閑城の記録は見られず、鎮房はいつの間にか霜野城へ入っており、11月13日に佐々方の前野忠勝による総攻撃に対して防衛戦を行っている。
ただ、この頃にはもう一揆方の敗退は目前となっており、城内の士気も低下し裏切りの可能性も囁かれだすと、鎮房は同月27日に城を脱出して筑後の三池上総介を、鎮照は荒尾の小代伊勢守を頼って落ち延びた。
その後、鎮房は安国寺恵瓊へ会いに行き、
佐々成能を討ったのは、鎮房の家来たちが上方の武士の鎧が華美との噂であったため見に行ったが、佐々勢に敵だと見做され攻撃されたため、やむなく応戦した結果であり戦う気は無かったと釈明している。
ともあれ、そのまま旅館に留め置かれ軟禁状態にあったが、翌天正16年(1588年)3月に立花宗茂により桃の節句に招待される。鎮房は討たれる可能性を鑑み250人を率いて柳川城へ向かうと、そのまま柳川城の門前で立花勢とにらみ合いになったが、鉄砲をお見舞いされて敗北したため自害したと『内古閑伝記』は記す。実父の隈部親永より2ヶ月早い粛清であった。
ちなみに義弟の鎮照は、石尾城に入って臨戦態勢に入ったものの、まるで忘れられていたかのように何ら気配なく、その後は牧野館に移って暮らしていたが、天正16年(1588年)9月20日に討伐軍300が押し寄せ、鎮照は妻や娘・実弟らを館より逃した上で17名と打って出て討ち取られたとされる。また、鎮照の実弟・藤菊丸は成人後に服部鎮直の名で黒田如水に仕えたという。