生没:1520年代~1583
阿蘇家当主は阿蘇神社の大宮司を代々務める神官で、阿蘇家は宗教勢力的な側面を持つ武士団だった。
生涯
若き日の惟将
永正17(1520)年に肥後国矢部郷で豪族・阿蘇惟豊の嫡男として誕生。
誕生時期は諸説あり、1524年もしくは1528年ともされている。
この頃の阿蘇家は父・惟豊が伯父である惟長との矢部の奪い合いに勝利したばかりであり古くからの配下国人衆を制御するため、高千穂の国人・甲斐親宣を中心とした新家臣団の構築で乱世を乗り切ろうとしていた。
元服した惟将も親宣の息子親直(甲斐宗運)の手を借りて従兄弟の惟前(惟長の子)を肥後から追放。更に1541年には謀反を起こした御船一族を討伐するなどして阿蘇家を安定させた。
こうして内紛と分裂を乗り切った阿蘇家は朝廷に実力を認められ、1549年に父・惟豊は1万疋の献上と引き換えに従二位に昇叙される。この頃が、阿蘇家にとって束の間の平和であった。
激しさを増す乱世
1559年、阿蘇家の全盛期を築いた父・惟豊が死去。父の跡を継いで大宮司に就任する。
この頃の九州は大内家の崩壊によって大友家が隆盛。
更に鉄砲(火縄銃)の普及もあって南の島津家も勢力を拡大させていった。
こうした怪しい雲行きの中で惟将は甲斐宗運を重用し、その補佐もあり大友や南の相良家と同盟を締結。1565年の甲斐親昌をはじめとした内乱者を取り締まり、阿蘇家の維持に心血を注いだ。
しかし1570年に大友が今山の戦いで大敗すると、肥後の豪族は多くが龍造寺家に寝返ってしまう。
おまけに頼りの大友は1578年の耳川の戦いで島津家に敗れいよいよ衰退。龍造寺・島津に挟まれた阿蘇家は存続の危機を迎えるが、惟将は宗運の手腕を信じ、自身は後方支援に専念。宗運の武略で攻勢を跳ね除けようと企んだ。
1580年に合志・隈部といった反大友派の北部諸豪族が阿蘇氏を倒すべく兵を挙げるが、宗運率いる阿蘇家は雨天によって油断した連合軍事を奇襲しこれを撃退(亘過瀬の戦い)。
1581年に大友家と手を切って龍造寺と結び、南北朝からの因縁の相手だった島津に対抗する。
同年秋には相良家が島津家に下りに阿蘇領へ攻め込むも、これを偽情報・奇襲によって撃退。
敵の大将で相良家当主の相良義陽を討ち取った(響野原の戦い)。
こうして宗運の活躍で危機を脱した阿蘇家だが、島津家との戦力差はもはや覆せない段階にあった。
そこで惟将は宗運の
「もうすぐ天下を取る者が現れ、乱世も終わるでしょう。それまで時間稼ぎをするのです」
という意見を採用し、島津と時間稼ぎを兼ねた和睦を交渉、攻撃の手を遅れさせた。
そのような中、1583年に惟将は死去。男子はなく、家督は弟の惟種が継いだ。
人物・総評
阿蘇家は資料があまり多くはなく、惟将の活躍の詳細を知る事は非常に難しい。
また、腹心には甲斐宗運という戦国屈指の老獪な知略家がいたこともあり、アクの強い九州勢の中では地味な存在となりがちである。
しかしながら惟将の生きた時期は大友・島津・龍造寺という三大勢力に周囲を挟まれ、少しでもミスがあれば一族もろとも滅ぼされかねない状況にあった。(そして、こういった状況で滅んだ武家は数えきれないほど多い)
このような中にあっても阿蘇家は周囲の攻撃を潜り抜け、惟将の在命中はその領土を維持し続けている。
そもそも阿蘇家はヤマト朝廷が成立する以前から続く九州屈指の古い豪族であり、地縁が強くて配下の国人を近代的な家臣団へ移行させる事が困難であった。
(また、阿蘇家自体が神官兼支配者であったことも武家的な近代家臣団への移行を邪魔した)
このような環境で外的脅威を排除しながら領国を維持するのは並大抵のことではなく、実際に次々代の惟光期には家臣団は暴走・分裂。阿蘇家は大名の地位を失った。
このような事情から惟将は決して凡人ではなく、阿蘇家という制御の難しいボロ船を乗りこなせる器量を持った、優秀な大名であることが窺える。
(注)宗運はボロ船に似つかわしくない、超高性能エンジンであろう
ちなみに、地元の伝承によればかなりのイケメンだったそうな。
関連タグ
蛍丸…家代々の宝刀。
筒井順慶・・・宗教勢力出身、立地が最悪、家臣に恵まれた、在命中は本領を維持したなど共通点が多い