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阿蘇惟長

あそこれなが

阿蘇惟長とは阿蘇惟憲の長男で、阿蘇惟豊の兄。阿蘇惟将の叔父にあたる人物。一時期、菊池家当主となって菊池武経(きくち たけつね)と名乗っていた時期もあった。(1480年-1537年)
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菊池家乗っ取り

1480年、阿蘇惟憲の長男として矢部で生まれる。後に大宮司職と家督を継いで第17代目当主(肥後の名門・阿蘇大宮司家の73代当主)となる。

1504年、菊池家当主・菊池能運が22歳で早世すると一族の政隆が後を継いだ。しかし政隆は13歳の若さであった為に、家中の統治は不可能であった。その隙を突いて惟長は菊池家を乗っ取ろうと企んだ。

1505年、菊池家臣団22名は政隆を排除して惟長を新たな守護として迎える起請文を提出。その結果、惟憲・惟長親子はこれを受けて大友義長とも結託。後援の内諾を得て菊池氏の重臣達に圧力をかける事で、菊池家群臣84名による連判状が届いた。

惟長は弟・惟豊に家督を譲って自らは隈府城に入ると名を菊池武経に改め、家督と肥後守護職も簒奪した。これにより、菊池家第24代目当主になった。

菊池家脱出

しかし、追放された筈の政隆は相良長毎を頼って八代に落ち延びて再起を図ろうとしたが、長毎は親惟長派であった為に復帰は失敗に終わる。

1509年、武経(惟長)は大友親治に政隆討伐を依頼。政隆は朽網親満に捕縛されるも脱出して久米安国寺に立て籠もった。武経は500人の軍勢を率いて久米原にて政隆を破って自害に追い込む。

しかしこの一件を機に武経は横暴を振るう様になり、国政も顧みずに享楽に走っては驕慢な振る舞いが目立つようになった。菊池家臣団は武経を疎ましく思うようになり、両者の関係は悪化の一途を辿った。

2年後(1511年)、武経は菊池家から脱出して再び本名の阿蘇惟長に戻して故郷に帰還を果たした。ところが・・・。

惟豊との争い

しかし大宮司職は既に弟の惟豊が務めており、惟長は隠居(居候とも)扱いであった。流石に惟長の野心は収まらず、遂に当主復帰を図って弟・惟豊と戦う事となった。

1度目は家臣の一部と結託して弟から大宮司職を簒奪する計画を立てたが、事前に露見して薩摩に逃亡。2度目は1513年に島津の支援を受けて薩兵を率いて惟豊を攻撃し、惟豊を日向国鞍岡に追放させた。復帰した惟長は、まもなく嫡男の惟前を大宮司職に据えて隠居するが、実権を掌握した。

しかし1517年、甲斐親宣(甲斐宗運の父)の支援を受けた惟豊が再び阿蘇に侵攻。敗北を喫した惟長は、全てを失って息子・惟前と3名の供を連れて薩摩国に落ち延びた。後に相良家の支援を得て堅志田城を居城とし、再び惟豊に挑もうとした。

だが、その矢先に1537年に堅志田城にて57歳で野心に満ちた生涯を終えた。

信長の野望

蒼天録PKより初登場。この時は菊池武経名義で登場したが、再登場時の天道PKでは阿蘇惟長名義で登場。政治を除けば弟・惟豊の上位互換性能となっている。

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