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大友義長

おおともよしなが

大友義長とは大友家第19代目当主で、親治の長男。義鑑、重治(菊池義武)の父で大友義鎮(宗麟)の祖父。(1478年-1518年)
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後継擁立編集

1478年、後に大友家第18代目当主となる大友親治の長男として誕生。弟に戸次元載、田原親種がいる。幼名は塩法師丸で、初名は親匡(読みはちかただ、またはちかまさ)、後に親元。その後に足利義澄より偏諱を受けて、義親と改名。まもなくして義長に再改名している。


1496年、第17代目当主で従兄弟の義右と元第16代目当主だった叔父の政親が相次いで死亡。父の親治は大友家第18代目当主として就任。親大内派勢力の敵と戦い続けた。翌1497年に父によって第19代目当主として擁立される。


宗心との戦い編集

父の親治は当時、大内家の元にいた前将軍・義稙に接近して大内氏の支持を得ようとした。しかし大内義興はこれを反対し、更に義長を正当な跡継ぎとして認めずに大友家一族の大聖院宗心の家督相続を主張したのだった。


大友氏との敵対は望まない義稙の仲裁によって義興とは和解する事に成功するが、宗心の家督相続が気に入らなかったのか1498年頃に第11代目将軍・足利義澄に内通。その援助により豊前へ進出し、下毛郡の戦いで大内軍を破った。この事で宗心は周防へ追放される事となった。


この戦いから3年後の1501年に義澄は義長の家督を承認し、豊後・筑後・豊前の守護に任じた。結果、義長が大友氏の正当な継承者として一段落する事となった。同時に父が隠居した事で、大友家第19代目当主に就任した。(ただし実権は父の親治が掌握し続けた。)


翌1502年には阿蘇家出身の妻との間に最初の子である親安が誕生している。


分国法制定と内乱鎮圧編集

しばらく義長は義澄方の諸将の一人として少弐資元などと共に義稙と義興と敵対したが、1507年に細川政元が家臣に暗殺される事件(永正の錯乱)が起こると畿内が混乱。これに乗じて大内義興が義稙を擁して1508年に上洛。


義長は大内家と義稙との和睦を図っており、義興を資金的に援助。これによって義稙を再び支援した事で義澄を見限った事となり、義稙が将軍に復帰後に豊前守護の座を義興に明け渡した。


内部混乱の多かったかつての大友家の事を考えた義長は分国法「義長条々」を制定。ただしこの時の義長条々は家族への姿勢や思いやりなどにつき延々と述べるなど、家訓的な性格が強かった。


1505年には阿蘇家当主・阿蘇惟長が菊池家乗っ取りを計画。義長はこれを承諾して、菊池家臣団を新当主・武経(惟長)を迎えさせるなど活躍。4年後には菊池家復権を図ろうとした菊池政隆を自害に追い込むなど干渉する。


また星野氏が大内家と結んで謀反を起こすとこれを鎮圧すべく対決。長年の抗争の末に1513年に鎮圧する事に成功した。1515年には子の親安に家督を譲って隠居したが、父同様に実権は握り続けた。


1518年には子・親安の家督相続に不満を持ち、更に再び宗心を当主に擁立させようと朽網親満が謀反を起こしたが、義長はこれを鎮圧。臨機応変に対応しながらも父と共に国を安定させた義長ではあったが、まもなく同年9月15日に父の親治に先立って40歳で死去した。


子の親安はまだ16歳という若さであったため、父の親治が1524年まで後見を務める事となった。


信長の野望編集

蒼天録PKのみで登場。総合能力では父の親治に劣るが、知略では勝っている。なお生年が1481年に変更されている。

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