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サンフレッチェ広島

さんふれっちぇひろしま

サンフレッチェ広島とは、Jリーグに所属するプロサッカークラブである。ホームタウンは広島市。
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Jリーグオリジナル10の1つでもある。


解説編集

創設年1938年
加盟年1991年
ホームスタジアムエディオンピースウイング広島
クラブカラー
マスコットサンチェ&フレッチェちゃん

広島県広島市を本拠地とするJリーグチーム。前身はマツダ(東洋工業)のサッカー部で、1965年にスタートした日本サッカーリーグに参加、同年から1968年まで4年連続優勝、という快挙を成し遂げている。

1993年のJリーグ発足時より参加のいわゆる「J1オリジナル10」の一つ。


名前の由来は戦国武将で広島出身の毛利元就の故事成語三本の矢から。

【サン+フレッチェ(イタリア語で矢を意味する)】


珍事編集

JSL最多の11得点勝利編集

1965年の日本サッカーリーグ第1回大会の第14節で、11-0でヤンマー(現在のセレッソ大阪)を圧倒した。東洋工業は同年の天皇杯で初優勝を成し遂げ、1967年、1969年にも優勝した。3度の優勝を含め、東洋工業→マツダサッカークラブ→サンフレッチェは14度決勝に進出している。


チェアマン杯を破損編集

1994年6月11日、磐田スタジアムで行われた試合でジュビロ磐田に勝利、サントリーシリーズ優勝を果たした。選手たちは喜びのあまりクリスタル製のチェアマン杯を頭にかぶったり振り回した。この際チェアマン杯をサポーターに見せようとすると、選手とスタッフが誤ってカップを落としてしまい、チェアマン杯が壊れた。サンフレはその場でJリーグに陳謝、新たなチェアマン杯が贈られた。これを機にチェアマン杯が金属製となった。カップの破片は大切に集められ、一旦溶かされてペンダントになった。


ユニフォーム忘れ編集

1995年4月1日、熊本市水前寺競技場で横浜フリューゲルスと対戦。アウェー続きで2試合分の用意をするため、2ndユニフォームを持参した。しかしフリューゲルスのホームに使われた1stユニフォームが白だったため、スタジアムに着いたスタッフが間違いに気づき、紫の1stユニフォームを届けるようにサンフレの事務所に頼んだものの間に合わず。フリューゲルスの了解を経て熊本県サッカー協会から紫のスプレーを借りたものの、すべてのユニフォームを紫に染めるのに時間が足りず、サポーターからレプリカユニフォームを借り、テープで背番号を貼って試合に臨んだ。試合はVゴールで勝利。

その後営業がスポンサーに謝罪し、Jリーグから制裁金が課された。


J2降格したが監督続投、J2無双編集

2007年にはミシャことミハイロ・ペトロヴィッチ監督が就任。序盤こそ好調だったものの、相手の対策や守備の崩壊、財政的な問題などが生じ次第に調子が落ちていく。結果、16位でJ1・J2入れ替えで京都サンガF.C.に敗れてJ2降格決定。従来だとチームが降格したら監督は退任することが多いが、戦術がハマれば魅力的なサッカーをしていたことなどを理由にミシャ監督は続投決定。

J2時代はゼロックス・スーパーカップで鹿島アントラーズに勝利したことを皮切りに、勢いは止まることなくJ2を無双した。全節首位での優勝・勝ち点100達成・9月に優勝確定などの伝説を残す。

余談だが、J2降格したときは待遇(例えば鉄道だとグリーン車からランクダウン)が下がるが、佐藤寿人らは「必ず1年で戻るから去年までと変わらずやってほしい」といった具合にフロントに要求したとか。実際に1年でJ1の舞台に戻っており、見事に有言実行を果たした。


天皇杯で地域リーグのチームに敗れるもJ1優勝編集

2012年、J1首位に立ちながら、9月8日の天皇杯2回戦でリーグ得点王の佐藤寿人を擁する最強のメンバーで今治FC(四国リーグ)と対戦するも1対2で敗れた。しかし11月24日にクラブ史上初となるJ1年間総合優勝を達成した。

ちなみに9年後の2021年6月16日の天皇杯2回戦でも、おこしやす京都(関西1部)に1対5で大敗した。


広島最高!からの翌日。編集

今となっては「誘ってんじゃん!」でおなじみのDF森脇良太。2012年には広島で33試合に出場してJ1優勝に大きく貢献した。6万2000人を動員した広島の優勝パレードではカメラにアップで映し出され、「広島最高!」とコメント。しかし、その翌日に浦和レッズへの移籍会見を開いた。恩師のミシャ監督や元広島戦士で彼の盟友である槙野智章柏木陽介らがいるとはいえ、優勝したクラブから3位のクラブへ移籍金ナシで行くことになり、一部の広島サポを敵に回してしまったようである。なお、「誘ってんじゃん!分かる?分かる?」は広島時代ではなく浦和時代での名言(迷言?)であり、槙野も後にこの様子を実況している。あろうことか、彼のYouTubeチャンネル名も「森脇良太の誘ってんじゃんTV」。


2013年の連覇と2015年の王座奪還など編集

2013年も最終戦までもつれたが優勝を決め、連覇を達成したのだが、実は最終戦前までは、勝ち点差2で2位だった。だが最終戦で1位の横浜F・マリノスが負け、サンフレが勝ったため逆転優勝が決まった。この年の天皇杯は決勝まで進出したが、横浜F・マリノスに0対2で完封負けを喫し、東洋工業サッカー部時代を含め天皇杯決勝戦8連敗、しかもすべて完封負けとなった。

また、2013年のFIFAクラブワールドカップでは3位入賞を果たしている。

2014年はガンバ大阪柏レイソル以来のJ1昇格(というか復帰)初年度でのJ1制覇を成し遂げて広島の3連覇は達成できなかったが、2015年はJ1制覇に返り咲いた。これで4年で3度のJ1制覇。

2022年は9年ぶりに天皇杯の決勝に進出、52年ぶりに天皇杯決勝でゴールを奪ったものの、二度のPK失敗が響き1-1の末にPK戦でJ2のヴァンフォーレ甲府に4-5で敗戦。前身の東洋工業時代からついに決勝9連敗となってしまった。が、その僅か1週間後に行われたルヴァン杯決勝を制している。



再び黄金期到来か編集

2022年、それはやってきた編集

新監督とリーグ戦編集

現日本代表監督のポイチこと森保一監督の下で2012年、2013年、2015年と4年間で3回も優勝を果たす。ポイチ退任後は良くも悪くも残留争いに巻きこまれることは少なく、安定してJ1でのシーズンを過ごしてきた。2021年もシーズン途中で城福浩監督が退くなどあったが、結果は11位。


2022年シーズン、ドイツ人指揮官のミヒャエル・スキッベ氏がサンフレッチェ広島の監督に就任することが決定した。コロナにより、入国が遅れたため、最初の2節はヘッドコーチが指揮を執った。

3節より本格的にスキッベ監督が指揮することになったが、指揮をした最初の3試合の結果は1分2敗。開幕から6試合勝ち無しで2連敗で心配の声が上がったが、翌7節で初勝利を納めて以降は3連勝だったり上田綺世と鈴木優磨の2トップがJ1で猛威を奮っていた鹿島アントラーズを3-0で何もさせることなく勝利するなど調子が上がっていった。その後も14~18節を4連勝、24~28節を怒濤の5連勝するなど、数回敗れることはあったものの、破竹の勢いで勝ち点を伸ばしていき、最終的には3位でシーズンを終えた。特に大卒ルーキーで加入した(というよりは広島ユースから大学を経て戻ってきた)満田誠が9得点8アシストの大活躍を果たし、鮮烈なJ1初年度となった。


悔しい天皇杯編集

天皇杯も準々決勝でセレッソ大阪、準決勝で京都サンガF.C.とJ1クラブを2連続で破るなど順調に勝ち進み、決勝進出を果たす。相手はJ2リーグで苦しむヴァンフォーレ甲府

試合展開としては、なんと前半比較的早い段階で甲府に先制弾を許してしまう。その後は追う立場となったが、後半に川村拓夢が1点を返して試合を振り出しに戻す。しかし、ATでも決着は着かずに延長戦へと突入する。すると延長後半に相手のハンドによりPKをゲットするという大チャンスが訪れる。

しかし、キッカーの満田誠はこれを外してしまい、大チャンスを逃してしまう。

その後もスコアは動かず、最終決戦となるPK戦へと移行する。先攻は広島、後攻は甲府。

3本目まではお互いに成功する。しかし、4本目のキッカー川村が止められてしまい、失敗。その後はお互いに全てのPKが成功し、結果、甲府が5本全て成功、広島は4本成功となり、天皇杯決勝は敗れてしまった。選手たちの目には悔し涙が浮かんだ。


ここでは決勝戦について述べたが、それまでの甲府の経緯については番狂わせ甲府のページを参照。


余談だが、この年の天皇杯ではJ2クラブがJ1クラブを破る、ジャイキリことジャイアントキリングが数多く起こっている。甲府が破ってきた北海道コンサドーレ札幌サガン鳥栖アビスパ福岡鹿島アントラーズ、広島の他にもFC東京浦和レッズジュビロ磐田、さらにはJ1リーグ2022優勝の横浜F・マリノスと準優勝の川崎フロンターレもJ2クラブに敗れた。


劇的なルヴァンカップ編集

天皇杯決勝戦から1週間後。ルヴァンカップ決勝が行われた。前日にはかつて広島に在籍しており、佐々木翔、柏好文、青山敏弘らともプレーしたJ3テゲバジャーロ宮崎所属の工藤壮人が急逝するという悲しい知らせもあった。ルヴァンカップもグループリーグから順当に勝ち上がり、こちらも決勝まで上り詰める。相手は2年連続決勝進出となったセレッソ大阪

前半は一進一退の攻防が続き、スコアレスドローで折り返す。しかし、後半開始から間もない頃に、キャプテン佐々木翔のキーパーへのバックパスが甘く、そこを相手FWにボールを奪われてそのまま先制されてしまう。その後も中々点を奪えないでいると、相手にレッドカードが出て数的有利になる。それでもセレッソの懸命な守備に苦戦していて点を奪えずATに突入することになる。


ここで衝撃的なドラマが起こる。


AT突入後4分に相手のハンドがあったとして、PKを獲得する。これをソティリウが冷静に決めて土壇場で追いつく。これを機に一気に広島の勢いが増していく。


その5分後である。


CKを獲得し、満田がクロスを送ると、ソティリウが右足で合わせてネットを揺らし、大逆転を果たす。その後数分は守り切り、このまま1-2で試合終了。初めてルヴァンカップで優勝を果たした。


以上をまとめると、リーグ戦3位、天皇杯準優勝、ルヴァンカップ優勝。全大会で3位以内である。ベストイレブンに広島の選手は入らなかったが、優秀監督賞にスキッベ監督が、年間ベストゴールに清水エスパルス戦で川村拓夢が放った超ロングシュートが選ばれた。川村曰く、「鹿島アントラーズのエヴェラウド選手のオーバーヘッドがベストゴールだと思ってた」とのこと。


スキッベ監督2年目、2023年。編集

序盤戦は少し出遅れるが、その後は去年のようなハイプレスサッカーが席巻。5連勝などで徐々に順位を上げて本年も上位へ躍り出る。しかし、アビスパ福岡戦で相手のタックルを受けた満田が全治不明の大ケガを負う。以降は満田不在で試合を重ねることになるが、チーム全体の決定力の低さや満田不在の穴埋めなどに苦戦。満田のハイプレスと運動量の役割の大きさを強く痛感する試合が続き、順位は徐々に下降線を辿っていた。


全治不明とはなったが、かれこれ約3カ月後に満田は復帰。彼が離脱中~復帰直後の期間には相棒である森島司が名古屋グランパスへ移籍、一方でセレッソ大阪からレオ・セアラの相棒としてチームの看板選手だった加藤陸次樹と横浜F・マリノスから2019年の得点王のマルコス・ジュニオールが加入するというビッグニュースが広島を取り巻いた。満田復帰後は再び勢いが戻り、最終的には前年と同じ3位でシーズンを終えることができたが、満田がどれほどチームで大きな役割を果たしていたかが露骨に浮き彫りになったシーズンとなった。

本年を以ってベガルタ仙台時代に仙台の昇格・躍進と2015年の広島3度目のJ1制覇に大きく貢献した林卓人は現役引退。エディオンスタジアムラストゲームではラスト10分程度出場し、3-0で試合を締めることに成功。彼が背負ってきた背番号1を現守護神である大迫敬介に託して現役生活を終えた。


なお、天皇杯では3回戦で栃木SCに0-2敗れてしまい、ルヴァンカップもグループステージ敗退決定。


選手やチームの特徴編集

育成に力を入れているクラブであり、ユースからの昇格やユース経由の大卒ルーキーが多く所属している。ユース出身者は満田のように加入後即戦力として躍動するケースもあれば、川村のようにJ2クラブなどで武者修行を経てから広島に帰還して躍動するケースなど様々。同じく育成クラブとして有名なサガン鳥栖とは違い、広島に長く在籍している選手が多いことも特徴だといえる。現在進行形でバンディエラであるクラブレジェンド青山敏弘の影響かもしれない。


かといって若手主体のチームというわけでもなく、中堅・ベテラン勢も広島において大きな力になっている。2012・2013・2015年に優勝した際には佐藤寿人や森崎兄弟は既に30代であり、青山は2006~2021年までほぼ全てのシーズンで20試合以上に出場している。現在もベテランの域に入った佐々木翔や塩谷司は替えの効かない存在として君臨している。


監督と選手が強固な関係で結ばれていることもうかがえる。実際、ペトロヴィッチ監督が資金面での問題で監督を退くとなったときに寿人や青山は号泣したらしく、後に浦和レッズの監督に就任した際には槙野智章・柏木陽介・森脇良太・西川周作らが彼の後を追うかのように浦和へ移籍した(ただし、槙野は1回海外へ旅立っており、帰国する際に広島にJリーグ復帰する旨を連絡したが獲得予定は無いと言われて浦和へ行った)。


従来エースナンバーは10とされるが、広島でのエースナンバーは11である。寿人が退団後は空き番になっていたが、満田が2023年に背番号11を背負って再び復活。


あとサポーターが粘着質。


ホームスタジアム編集

広島サッカースタジアム(エディオンピースウイング広島)


広島の中心街である紙屋町から徒歩圏内に、2024年に念願の専スタがオープンした。座席数は28,520席。


JR新白島駅、アストラムライン県庁前駅、広島電鉄紙屋町西または原爆ドーム前より、いずれも徒歩10分~15分程度と地味に歩くのではあるが、広島城やグリーンアリーナなどがあるエリアは回遊も観戦の一部である。


一方、旧Eスタにあった無料駐車場は廃止されており、近隣のコインパーキング等に止めて行くこととなる。



広島のサッカースタジアム構想編集

広島が戦前からサッカーが盛んであり、1950年代以降広島市にサッカースタジアム構想が持ち上がったが、三角州で形成された狭い平野、地元財界が財政難、被爆した建物が要因で進まない。

サンフレの前身である東洋工業蹴球部も本格的なグラウンドを持っておらず、市内高校グラウンドを転々とした。国際試合や主要大会も広島市民球場で開催された。

1992年に広島アジア大会のメイン会場、サンフレのホームとして、広島広域公園陸上競技場(ビッグアーチ)が建設。その後、屋根が少ないこと、交通アクセス、カープとサンフレの試合が同じ日に行われるなどの問題が浮上した。

2002 FIFAワールドカップが日本と韓国で開催されることが決まり、開催地として広島市が立候補し、ビッグアーチを改修しようとするも、費用の問題や日韓共催により3試合しか開催できなくなるかもしれないことから、1996年に広島市は改修を見送って開催地から外れ、メディアからのバッシングを受けた。

2003年には新設案が3案、改修案が2案出されたが、いずれも没になった。中でも広島市民球場案は、2006年4月に原爆ドームから200m先に高さ45mのマンション建設が発覚し建設反対運動が活発化、結果、5月21日に広島平和記念公園と広島市中央公園が分断される計画であると評価され、没案となった。こうしてスタジアム推進プロジェクトは止まった状態になったが、2009年4月にMAZDA Zoom-Zoomスタジアムが開場したことで、10月にプロジェクトが再び立ち上がった。

いったん計画を白紙に戻し、改めて検討した結果、2013年に候補地が西区観音地区(広島西飛行場跡)、中区広島中央公園敷地内(旧広島市民球場跡地とその北側の芝生広場)、南区宇品出島地区の3つが候補に絞られつつあったが、2014年11月、旧市民球場跡地と宇品出島地区の広島みなと公園に絞られた。これは観音地区が交通アクセスの問題で没案となったこと、中央公園芝生広場が東西に長いためにピッチを南北に拡張しにくく周辺住民への騒音の影響も考えられて外されたことによるもの。

2015年7月に広島県・広島市・広島商工会議所は広島みなと公園に建設した方が優位と考えたものの、サンフレは2016年3月3日の記者会見で、旧市民球場跡地に2万5000人規模のスタジアムを建設すると発表した。これがもとで県・市・商議所とサンフレの対立が続いたが、5か月が過ぎた2016年8月10日に4社トップ会談が実現した。9月14日には一旦候補から外された中央公園自由・芝生広場を候補に入れたものの、松井一実広島市長は、団地の住民の理解を得る必要があり、騒音、観客や車の導線など検討すべきと指摘。基町の住民から反対の声が上がり、中央公園案も実現できないかと思われたが、2019年2月6日、3回目の4者トップ会談で、建設候補地を広島中央公園自由・芝生広場に一本化することで一致。そして2024年に開場を見ることになったのである。


Wikipedia - より詳細な情報


エディオンの子会社化へ編集

2023年度中に債務超過に陥る可能性がある事が解り株主に打診していた。7月27日にはエディオンが第三者割当増資の62万6387株のうち50万株を引き受ける事を発表したと同時に連結子会社となった。


マスコット編集

熊の「サンチェ」と「フレッチェちゃん」が正式。さらに上記の「こやのん」。

イケクマサンチェ


こやのん


公式サイト編集

公式サイト


関連タグ編集

広田みのる(初代・スタジアムDJ<1995年から1999年まで>)


高杉真吾(キャプテン翼)…漫画「キャプテン翼」でサンフレッチェに所属。

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