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概要編集

1968年8月23日生まれ。長崎県長崎市出身。


高校の監督と日本サッカーリーグ(JSL)のマツダ(現サンフレッチェ広島)の今西和男総監督が知り合いだったため、1987年同クラブ入団。


1992年4月、オフトが日本代表監督に就任すると日本代表に初招集される。1993年、W杯アメリカ大会アジア予選に出場し、ドーハの悲劇を経験した。


その後いくつかのチームを渡り歩き2004年1月に正式に現役引退を表明した。


2004年、サンフレッチェ広島強化部のコーチに就任。2006年に就任したミハイロ・ペトロヴィッチ監督(現北海道コンサドーレ札幌監督)の下で経験を積み、ペトロヴィッチ監督退任後、2012年に監督に就任するとペトロヴィッチ監督が6年かけて築いた土台に改良を加え、クラブを史上初となるタイトルに導いた。その後もJ1リーグを2度征している。

この、「一度これだと決めた独創的な路線を苦しい時期を過ごしながらも耐えて数年にわたって土台を築き、最終的には本人、それを引き継いだ後任が路線を継続しつつも穴だった部分を埋め優勝を手にする」というスタイルは、川崎フロンターレや横浜F・マリノスなど2010年代、2020年代にかけて複数回優勝したクラブにも共通し、近年のJリーグの主流となる。


2017年7月4日、成績不振のため辞任したと発表した。同年10月12日、2020年東京オリンピックを目指す五輪代表の監督に就任した。


2018年7月26日、2020年東京五輪に出場するU-23日本(2018年時点ではU-21日本)監督を兼任したまま、ロシアW杯日本代表コーチから昇格する形で、日本代表監督に4年契約で就任した。


その後W杯出場をかけたアジア予選に挑むが、消極的な采配と戦績に批判が殺到し、解任を求める声も相次いだ。結果的にはW杯出場を決めたが、批判と疑問を残したままとなっていた。


そしてカタールW杯本戦。優勝4回の強豪ドイツ代表に対し先制されるも、これまでにないシステムとメンバー起用によって逆転勝ちすると、コスタリカ戦こそ敗れたものの、スペイン戦でも逆転勝利に導き、ベスト16という結果を叩き出した。

かつてドーハで選手として悲劇を経験した人間が、約30年後、監督として再び訪れた同じ場所を歓喜の地に変え、しかもその決勝点を決めたのがドイツ戦ではクラブ時代に共に黄金期を築いた自らの教え子、スペイン戦ではかつて自らが背負ったのと同じ背番号の選手という、最高に漫画の主人公的な存在となった。


2023年現在も続投。スタートダッシュこそ失敗したかに見えたものの、9月にドイツ側から招待され、費用は全てドイツ負担となった親善試合では、リベンジに燃える本気のドイツを、1-4と返り討ちにしたりと徐々に再評価がなされている。

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