「0対0で泥臭く引き分けるより、3対4で美しく負けたい」
概要
ヨハン・クライフ(本名:Hendrik Johannes Cruijff)とは、オランダを代表する伝説的サッカー選手。1947年4月25日、オランダ・北ホラント州ヘームステーデ出身。
日本での知名度はディエゴ・マラドーナやペレには劣るものの、サッカーそのものに与えた影響力は前述の2人よりはるかに上回る。(後述)
ニックネームには「まるで羽根が生えて飛んでるかのうようにバカっ早い」と形容された高速ドリブルや試合中に見せたジャンピングハイボレーシュートが由来の「フライング・ダッチマン」やイニシャルであるJ・Cが「ジーザス・クライスト」の略語である事が由来の「ジーザス・クライフ」と言うのがある。
指導者になってからは「サッカー界の革命児」と呼ばれた。
2016年3月24日、68歳で死去。死因は肺がんだった。
選手として
16才の頃にオランダプロサッカーリーグ屈指の超名門であるアヤックス・アムステルダムにてプロデビューを果たすと、その試合でプロ初得点をマーク。
1973年まで在籍し、それまでの間にUEFAチャンピオンズリーグの前身であるUEFAチャンピオンズカップ3回優勝に貢献。個人成績でも欧州の選手を中心に選ばれる最優秀賞であるバロンドールも2回にわたり選出された。
1973年に当時の移籍金としては超破格の200万ドルでFCバルセロナへと移籍。
移籍1年目にしてリーグ制覇に大きく貢献しただけでなく、宿命のライバルともいうべきレアル・マドリードとの直接対決である「エル・クラシコ」のアウェー戦で5-0と言う大差をつけての勝利は、当時を知るバルセロナファンの間では今なお「伝説の試合」として語り継がれている。
しかし1979年に上層部と運営方針について大きく衝突し、引退宣言をする。
だが直後にアメリカのプロサッカリーグへと舞台を移すと、後からアメリカへと渡ってきたドイツの「皇帝」フランツ・ベッケンバウアーらと共にアメリカサッカー界を大いに盛り上げた。
その後再びスペインでプレーすると、1981年に故郷アヤックスへと凱旋帰国。
しかし上層部から年齢を理由に断られると、「私がプレー出来るか否かを決めるのは、あなた達ではない」とブチ切れて、1983年にライバルチームであるフェイエノールトへと移籍する。
するとここで2年連続でオランダ最優秀選手賞を獲得し、さらに1984年にはフェイエノールト優勝にも貢献し1984年に完全に現役引退。
余力を残しての引退かと思われていたが、後に発行した自伝では相当に追い詰められていた事を明かした。
指導者として
アメリカでプレイしていた際、一般人も参加出来る夜間大学でスポーツ管理学を学んだ経験を活かし、引退の翌年にアヤックスの監督として指導者の道が始まる。なお、この時には正式なライセンス(サッカーでは指導者になる為には正式なライセンスを取る必要がある)を持っていなかった為に肩書としては「テクニカルディレクター」であった。
1987年まで指導すると最終年に欧州タイトル獲得するまでに至る。この頃の教え子の中にフランク・ライカールト、マルコ・ファン・バステン、アーロン・ヴィンター、デニス・ベルカンプと言った1990年代~2000年代までのヨーロッパサッカーシーンを熱狂させる名選手を多数輩出した。
翌年より今度はFCバルセロナに指導者として移籍。
ここでも辣腕を発揮し、リーガ・エスパニョーラ史上初のリーグ4連覇を成し遂げ、更にはクラブ史上初のチャンピオズカップ戴冠も果たす。
一見順風満帆かと思われるが実際には経済的に相当厳しい状況だったらしく、それまでの主力を多く放出するなど当時のバルセロナは大きく低迷している時期であった。
そこでクライフはジュニアチームの段階から統一された戦術を徹底的に教え込み、そこからトップチームへと昇格させると言う、FCバルセロナが今なお徹底して踏襲する育成手法を編み出す。
またFCバルセロナの代名詞でもある華麗なパスサッカー、ポゼッションサッカーもクライフが生み出したモノである。
ペレやマラドーナとの最大の違いはココであるともいえる。
現役時代にクライフの指導を受けたジョゼップ・グアルディオラは指導者になってから「私の戦術はヨハンがデッサンしてくれたものだ」と大きな影響を受けた事を認めている。
クライフの影響力
先ほどサッカーそのものに与えた影響がペレやマラドーナよりも大きいと述べた理由として、クライフが提唱した戦術がオランダやスペインの代表チームの基本戦術として取り込まれていると言う事である。
それこそがクライフが提唱したサッカー戦術である「全員攻撃・全員守備」を基本理念としたダイナミックな「トータル・フットボール」である。
またテクニック面においても大きな衝撃を残しており、中でも「クライフ・ターン」と呼ばれるフェイントは今なおジュニアから現役までプレイヤーを問わず憧れのテクニックとして挙げられている。
またサッカーそのものの振興にも積極的であり、自身が会長となってサッカー育成機関である「クライフ・コート」を設立。
オランダプロリーグの1部と2部でそれぞれMVPに選出された選手がこの「クライフ・コート」を設置する場所を選べる権利が与えられており、2009年に当時VVVフェンロに籍を置いていた本田圭佑が2部リーグのMVPに選ばれ、今年石川県金沢市にアジア圏初となる「クライフ・コート」が開設された。
彼の死後、アヤックス、バルセロナ、フェイエノールトといった過去に彼が所属していたクラブは一斉に哀悼の意を表し、特にアヤックスは本拠地スタジアムの名称を「ヨハン・クライフ・アレーナ」に変更した。
さらにこれまでの功績をたたえ、アヤックスでは当時クライフが背負っていた14番は永久欠番となっている。
余談
以上のように何かと凄いクライフではあるが、ちょっとクスリと笑ってしまうエピソードもちらほらある。
・頭に「超ド級」とつけても良いほどの機械音痴。死去まで携帯もパソコンを持ってないだけならまだしも、ビデオの録画予約すら出来ないくらいだった。
・持病である心臓病の影響で医者の指示により禁煙することとなり、代わりにベンチで「チュッパチャップス」をなめていたのがテレビに大写しされた事が同商品の世界的ヒットに繋がったとされる説がある。
なおこの説はチュッパチャップス本社も認めており、その縁もあり同社はFCバルセロナの公式スポンサーとなった。