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ディエゴ・マラドーナ

あるぜんちんさっかーかいのかみ

ディエゴ・アルマンド・マラドーナ(フルネーム:Diego Armando Maradona)とは、アルゼンチンどころか世界のサッカー史上に名を残す英雄である。晩年は「おもろいオッサン」としてのイメージが強め。
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プロフィール編集

出身地アルゼンチン ブエノスアイレス州
生年月日1960年10月30日~2020年11月25日

アルゼンチンリーグで当時最年少でプロデビューし、FCバルセロナを経てセリエAのSSCナポリで全盛期を迎える。

SSCナポリではセリエA2回優勝、UEFAカップ1回優勝の立役者となり、ナポリの地元民及びSSCナポリ現所属選手・OBより「ナポリの王様」として愛されている。


自ら後継者指名したリオネル・メッシとは世界中でしばしばなされる「最も偉大なアルゼンチン人選手」論争において常に名前が上がり比較される。母国アルゼンチンではまだまだマラドーナの方が英雄として迎えられている。

メッシは国内でのプレー経験がなく、代表でのタイトルに見放されていたのに対し(後にコパ・アメリカや2022年のW杯で優勝を勝ち取った。)、フォークランド紛争の敗戦で傷ついたアルゼンチン人のプライドをサッカー界最高の舞台で敵国イングランドを最低最悪のゴール「神の手」と史上最高のゴール「5人抜き」で破った勢いを借りて、ワールドカップを制したマラドーナはアルゼンチン人にとって救国の英雄と言って差し支えない存在なのである。


選手として編集

サッカー選手としては身長が低く、非常にずんぐりとした体形ではあるのだが、強靭なボディーバランスで当たり負けるどころか逆に仕掛けた相手を弾き飛ばすくらい。

ほぼ全てのプレーを左足一本でこなし、後述する5人抜きの際にも左足のみのドリブルでやってのけている。

非常に卓越した得点能力を持ち、フリーキックも得意。そのずば抜け過ぎたセンスから、「FWにマラドーナ1人おけば戦術が成り立つ」とすら言われた。


マラドーナのための大会編集

そして、マラドーナを語る上で決して外せないのは1986年のFIFAワールドカップメキシコ大会だろう。


この大会の準々決勝ではアルゼンチンとフォークランド紛争で対立していたイングランド代表と激突。政治的な問題も絡んで試合前から両国民はヒートアップしていた。試合は0対0で進み後半に入る。そこで生まれたのがかの「神の手」である。これはマラドーナがGKと空中戦で一対一になったところでヘディングに見せかけて手を使って得点した。当然ハンドの反則で得点は無効…のはずなのだが何故か認められてしまい、先制に成功。試合後のインタビューで「神の手が少し触れたおかげだ」と発言。ここから「神の手」という名前が付いた。これだけであれば、アルゼンチン人はともかく他国民からは単なる反則野郎として認識されていただろう。


しかし「神の手」ゴールの4分後。到底人間業とは思えないマラドーナのプレイが起こる。ハーフライン付近でドリブルを開始したマラドーナ。当然イングランドの選手たちが襲い掛かるが、これを見事なテクニックで躱してゴールに迫り、最後はGKまで抜いてゴール。奇蹟の「5人抜きゴール」が完成した瞬間にマラドーナは単なるスーパースターからとなったのである(実際、冗談半分ではあるがマラドーナを神とするマラドーナ教が作られている)。


また決勝戦でも決勝点となるゴールを左足でアシスト。

良しにつけ悪しきにつけ、「マラドーナの為の大会」と今なお語り草となっている。




指揮官として編集

2010年FIFAワールドカップ南アフリカ大会でアルゼンチン代表監督として参戦。

チームの状況で激しく一喜一憂する姿はどこかコミカルで、Pixivにおいても多数イラストが投稿された。

しかしその指揮能力には疑問が残り、中でも同年のUEFAチャンピオンズリーグ制覇チームであるインテル・ミラノに所属するディエゴ・ミリートやワルテル・サムエルをほとんど登用しないどころかエステバン・カンビアッソとハビエル・サネッティを招集せず、リオネル・メッシを中心とした攻守完全分担の戦術は「1930年代のサッカー」と揶揄された。

また戦術の幅にも難があり、攻撃一辺倒の作戦は準々決勝でのドイツ戦でアルゼンチンが敗れた最大の敗因と言われている。


その後はUAEのアル・ワスルとアル・フジャイラ、メキシコのドラドス、母国のヒムナシア・ラ・プラタでも指揮を執った。


幻のJリーグ移籍編集

実は1991年にJリーグ名古屋グランパスへの移籍が決まりかけていた(移籍金・年俸併せて15億円)が、違法薬物の使用疑惑により立ち消えとなった。なお弟のウーゴ・マラドーナ(後述)がアビスパ福岡北海道コンサドーレ札幌に在籍していたことがある。


死去編集

かねてより健康不良が伝えられ、入退院を繰り返していた。硬膜下血腫の手術を受けた後に退院してアルコール依存症の治療施設に入った。しかしその後の2020年11月25日、数々の伝説を残して、ブエノスアイレス郊外の自宅で死去した。60歳だった。死因は心不全。そのあまりに早すぎる死はサッカーだけに留まらず、多くの競技のレジェンド・現役から哀悼の意が寄せられた。


何度もメディアを通じての喧嘩を繰り返していたブラジルのペレは「いつの日か、空の彼方で一緒にプレーできることを祈っているよ」と述べ、マラドーナ2世と呼ばれた中で最も成功したリオネル・メッシはラ・リーガの試合でゴールを決めた後にかつてマラドーナが所属していたニューウェルスのユニフォームに着替えることでマラドーナに対する哀悼の意を示した(ただしメッシはこのことでリーガから処分を受けてしまった)。


また、ラグビーの国対抗戦でもオールブラックスが、ハカの中でも最上級の踊りである「カパオ・バンゴ」で故人の偉業を称えた。


所属していたSSCナポリでは本拠地であるスタジアム名が没後間もなくして彼の名前を冠した名前に変更された事も決して小さくない業績を残した事を物語っている。


死後もアルゼンチン代表サポーターのW杯用チャントでは「3回目の優勝が欲しいんだ 空にはディエゴが見える」と唄われ続けており、マラドーナがもたらした2回目の優勝から36年後、引退も考え始めていたメッシが伝説的な試合を繰り広げて、カタールの地で見事3回目の優勝トロフィーを持ち帰った。


素行問題編集

上記のような輝かしい本業での実績がありながら、素行の方では不良行為がたびたび報じられた。

彼の了承のもと制作されたドキュメント映画「ディエゴ・マラドーナ 二つの顔」内でもある程度そのことを認めている。

愛人との間に子供を作ったり、マフィアとの交友が報じられたり、1991年にはコカイン使用で逮捕されている。


日本の暴力団員とも交友があったことがわかっており、実父が京都に存在した暴力団「川合組」(現在は解散)の組長であったことを公表しているラッパーの孫GONGは少年時代に父から彼に引き合わされたことを写真付きで公表している。(参照)


最も、中南米の有名人はこうした黒いお友達との交友問題はつきものであり彼一人に限った話ではなかった。



家族編集

父と母はともにアルゼンチン北東部のコリエンテス州エスキーナの出身。

母方の祖母はイタリア・ナポリ出身の移民

8人兄弟姉妹で、ディエゴは5番目かつ3人の男子のうちの長男。

実弟の「ウーゴ・エルナン・マラドーナ」(ウーゴ・マラドーナ、1969年~2021年)もサッカー選手で、1992年に日本のPJMフューチャーズに入団。1995年~1996年には福岡ブルックス/アビスパ福岡、1997年~1998年にはコンサドーレ札幌に所属、攻撃的MFとして其々のクラブでJリーグ昇格に貢献している。 2000年に引退後はユナイテッドサッカーリーグ(USL、アメリカ合衆国とカナダの2部リーグに相当)所属のプエルトリコ・アイランダースなどで監督を務めたが2021年12月28日にイタリアの自宅で心臓発作により52歳で死去。


15歳の時に近所に住んでいたクラウディア・ビジャファーネの間に2人の娘が生まれ、1989年に結婚式も上げている。(2004年に離婚、ディエゴは同年に20歳のキューバ人女性と再婚。)


検索に際して編集

フルネームでの検索より、「マラドーナ」での検索がより多くヒットする。



関連イラスト編集

よし!

前述の「神の手」から生まれたと思われるイラスト。

まぁ、「よし!」ではない。完全無欠のファウルなので。

関連タグ編集

天国へサッカーをしにいった男

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