日本には若松城と呼ばれる城が二つ存在する。一つは陸奥国に存在した会津若松城であり、もう一つは筑前国に存在した若松城である。
なお、ブラウザゲームにおいて擬人化されたキャラクターに関しては若松城(御城プロジェクト)、会津若松城(御城プロジェクト)、黒川城を参照されたし。
陸奥国
この城は会津若松に存在する平山城であり、会津若松城と呼ばれる。また、別名を鶴ヶ城とも呼ばれる。
歴史
南北朝時代に京都を離れこの地に土着した蘆名直盛により東黒川館(または小田垣の館)という豪族の住居が作られ、おそらくそれが発展した形で15世紀半ばには黒川城(または小高木城)と呼ばれる城が存在していたとされる。
その後この城は戦国時代まで蘆名氏の一族の城であったが、伊達政宗により攻められ落城、蘆名氏(会津の本家)は滅亡、のちにこの城は政宗が豊臣秀吉に仕えることとなったさい、秀吉のものとなった。
この城は蒲生氏郷のものとなったが、その際近代的な城(ただし形状が異なり望楼型7重、すなわち入母屋造りの櫓上に小型の望楼を載せたような形式で7段の城であったとされる)に作り替えられ、名前も鶴ヶ城と改められた。城下町も名称を黒川から若松(これは彼が松は相性が良いと考えたためである)に改め整備された。
しかし子である蒲生秀行世代に家中騒動を起こし、宇都宮に左遷、上杉景勝が城主となるも、関ヶ原の戦いにおいて西軍についたため米沢(現在の山形県米沢市近辺)に移ることとなった。
そこで石高を半分として関ヶ原の戦いの際うまく立ち回った蒲生秀行がこの城に入ることとなる。しかし子である蒲生忠郷が跡継ぎなしで死んだため領地は没収された(なお本来ならば取り潰しとなるところ、徳川家康の娘の子であったため弟が家の存続を許され松山に移動する形となり、幕末まで存続)。
この地には藤堂高虎を当てるつもりであったらしいが、行きたがらず(おそらくは寒いところにはいきたくなかったし、もしかしたら松山に行きたかったのかもしれない)松山の大名であった加藤嘉明(戦国大名、豊臣秀吉に仕え賤ヶ岳七本槍として知られる、朝鮮出兵でも活躍した)を推薦したためそうなった。
二代目の加藤明成においては地震において天守閣が倒壊した城を層塔型天守(上に行くにつれて平面規模が逓減し、最上重の屋根だけを入母屋とした寺院の五重塔のように上から下までデザインに統一感が存在する)に作り替え、城下町の整備を行ったといわれる。
ところが、このことにより金を使いすぎたためか、会津騒動(反対派の家臣が関所を破り高野山に逃亡、これを成敗するという事件)が発生、この責任をとって隠居の際庶子がいるにもかかわらず領地を返上してしまう(なお、本来ならば子に継がせるべきであったが正室をかばったかそれともややこしいことを嫌ったのか不明であるがその庶子は一万石の小大名となり、幕末まで存続)。
そこで徳川秀忠の庶子であり、保科正光(徳川家に仕えた大名、高遠藩の藩主)の養子となっていた保科正之をこの地をおさめさせる。
この子孫は松平を名乗ることを許され、明治維新までこの地を治めることとなる。
そして松平容保の時代、戊辰戦争が発生すると会津若松は戦場となり、この城では籠城が行われた。前線へ張り付けていた関係もあり、兵力が乏しい状態であったものの、ひと月ほど耐え抜く。しかし同盟藩からの応援もなく、落城することはなく開城することとなった。
廃城令においては存城処分となったものの、籠城の影響により建造物の傷みが激しかったこと、新政府に反抗した城であったことを理由に建物はすべて解体され、三の丸付近が陸軍の連隊練兵場となった。なお、一部の敷地は旧藩主に払い下げられた。
現状
藩主に払い下げられた土地は大正6年に公園として整備することになり、昭和2年に会津若松市により取得、昭和9年に国の史跡となった。
連隊練兵場あとは戦後、陸上競技場、プールおよび博物館が建てられた。
また昭和40年には鉄筋コンクリート製の天守閣が復元された。
さらに平成5年には追加で史跡に指定された。また平成18年、日本100名城に選ばれている。
関連項目
参照
筑前国
この城は別名中ノ島城といい、この城は関ヶ原の戦い以後この領地を得た黒田長政によって福岡城の支城として他の五か所の城(黒崎城、高鳥居城、大隅(益富)城、松尾城、真寺城)とともに築かれた。
この城は海に面した約700m(具体的には6町7間4尺)ほどの島、中ノ島の中に建築されており、主たる目的としては敵を海上から攻撃することであると推測され、三宅家義率いる水軍が存在し軍船が多数所属していたといわれている。
ところが江戸時代における一国一城令によりほかの城と同様、廃城となり、取り壊された。ただし江戸時代末期にはこの城跡に砲台が設置され、城塞として活躍していたとされる。
しかし昭和に入ってからおそらくこの城のあった島が船舶の往来に支障をきたしているため削り取られてしまい、現状この城の遺構は何も残存していない。
残存した期間が短いこと、遺構が存在しないことなどから現在においてはこの城の形式は全く不明でであるが、立派な城というよりも水軍の拠点といった感じのものではないかと推測される。
関連項目
参照
pixivにおいて
pixivのタグとしてはこれほどの歴史があるにもかかわらず擬人化されたキャラクターしか投稿されていない。