太閤
たいこう
太閤とは摂政・関白を退き、朝廷から内覧の宣旨を受けた者に対する尊称。敬称は「殿下」もしくは「太閤下」で、呼びかけるときは「太閤殿下」。しかし後年では「殿下」は省略されるようになり、単に「太閤」だけで敬称となった。
また仏門に入った太閤は禅定太閤とよばれ、略して「禅閤」といった。
平安時代
元々は現職の関白・大乗大臣に対する尊称であった(平安時代の古文書などで「関白太閤」の記述がみられる)。また摂政を嫡男に譲った人物にも「太閤」の尊称が使われ、例えば藤原道長は関白に就任したことはないものの、後一条天皇の摂政を退き続いて就任した太政大臣の職も辞した後に太閤と呼ばれるようになった。
また摂関職は平安時代中期以後豊臣秀吉が現れるまで、藤原氏や藤原氏を継いだ五摂家出身者が就任するようになったため、必然的に太閤と呼ばれる者も藤原氏の者が多かった。
安土桃山時代と豊臣秀吉
安土桃山時代、戦国武将の豊臣秀吉は武家として初めて関白に就任した。その後豊臣秀吉は関白の座を養子の豊臣秀次に譲ったため「太閤」と呼ばれるようになった。しかしそれまでとは違い、秀吉は死後も「太閤」と呼ばれるようになり、また秀吉の行った検地を「太閤検地」と呼んだり、秀吉が有馬温泉で入ったと伝わる風呂が「太閤湯」と呼ばれるようになったり、果ては秀吉が主人公の大河ドラマに「太閤記」があったりするなど、秀吉に関することでも「太閤」がつくようになった。そのため一般的には「太閤」と言えば秀吉を指すことが多い。また特に秀吉を指して「豊太閤」とも呼ばれることがある。
江戸時代
江戸時代に入っても関白の職は無くなることはなく、「太閤」の尊称がつけられる人物も存在した。例えば摂関職を子供に譲った一条兼香は「太閤」と呼ばれた。
明治維新で関白は廃止となったため、「太閤」と正式に呼ばれる人物は消えた。しかし前述の豊臣秀吉にならい「今太閤」と呼ばれる人物は存在した。
近現代
前述のとおり、関白職は摂政(のちに復活)や太政大臣と共に廃止された。しかし、太閤の語は過去のものにはならず、豊臣秀吉のように生まれが貧しかったものが総理大臣などの大きな権力者を指して「今太閤」と呼ばれるようになった。
例としてはまず、伊藤博文が百姓の出から内閣総理大臣や元老に就任したためこう呼ばれた。また大学を出ていないにもかかわらず総理大臣に就いた田中角栄もこう呼ばれた。
また総理大臣など政治上のトップにならずとも「今太閤」と呼ばれる人物は存在した。政界では保守政治家の三木武吉が、経済界では阪急電車創業者の小林一三、松下電器(今のPANASONIC)の松下幸之助、大映の永田雅一らが、また女性である吉本興業の吉本せいは「女今太閤」と呼ばれた。