概要
この城は別名亀ヶ岡城とも呼ばれ、川越城(中世には河越城と呼ばれた平山城であり、日本100名城のひとつ、川越藩の藩庁が置かれた城であり、初雁城、霧隠城などとも)、忍城(行田に存在した平城であり、戦国時代にこの城は水攻めをされても落城しなかったことで知られる)をはじめとする関東七名城のひとつであるとされる。なおこの城は石垣を使わない土塁造りの城である。
徳川幕府の最重要地日光の守りの要でもある宇都宮藩の藩庁でもあった。
歴史
この城は平安時代に建築されたとされ、築城者は藤原宗円(宇都宮氏の祖)、または藤原秀郷である。藤原氏の流れをくむ下野宇都宮氏によって築城された城で安土桃山時代まで500年以上彼らにより統治されたとされる。
南北朝~室町時代
南北朝時代にはこの城を巡って激しい攻防が繰り広げられ、建武3年には足利尊氏に降伏し、北朝方として各地で転戦している当主の宇都宮公綱の不在を狙い南朝勢が攻めており、この城の堀際で合戦になっている。
その翌年には南朝(北畠顕家)に寝返った公綱に不満を持った重臣芳賀禅可が宇都宮氏綱を新当主として擁立を図り、それを阻止するために南朝勢が宇都宮城を攻めており合戦になった。
室町時代の応安元年には鎌倉公方足利氏満が(守護職の件で)鎌倉府に不満を持ち乱を起こした宇都宮氏綱を討つために宇都宮城を攻め激戦となった。その結果氏綱は降伏した。
康正2年には古河公方足利成氏が幕府方についた宇都宮等綱を降伏させるために宇都宮城を攻撃している。
戦国時代
戦国時代には周辺勢力との戦いが激化した。これは古河公方であった足利高基とその父である政氏との内乱が原因であったとされる。
永正9年、当時の当主宇都宮成綱が家中支配強化と粛清を兼ね、誇張しつつあった筆頭重臣の芳賀高勝を城内で殺害し、宇都宮錯乱という内紛が発生し、芳賀氏を2年かけて鎮圧したものの、永正11年、内紛の隙を突いて侵攻してきた佐竹義舜率いる連合軍を新当主宇都宮忠綱が迎え撃つが敗れ、宇都宮近辺まで侵攻を許してしまった。忠綱の父成綱は婚姻同盟を結んでいる結城氏から援軍を要請した上で宇都宮城北東の竹林で迎え撃ち、激戦を繰り広げ撃退した(竹林の戦い)。これで小康状態にはなったものの、後に家内の乱は復活。
天文7年には小山高朝が宇都宮尚綱を攻め、宇都宮城下の宮中、宿際を破壊された。
天正13年には北条氏直が城下に侵攻し、放火。この頃は宇都宮氏の本拠は多気山城であり、宇都宮城はその支城として機能していた。
なお小田原を攻め滅ぼした秀吉と当主であった宇都宮国綱の関係は良好であり、羽柴姓さらには豊臣姓も賜るほどだったが、石高を偽ったためとも家内争いによるものとも浅野長政と石田三成の争いに巻き込まれたとも言われるが、改易される。
その後この城には浅野、蒲生秀行(蒲生氏郷と冬姫の子)などがこの城に入っている。
江戸時代
江戸時代にはこの城は将軍の日光東照宮参拝のための宿場として利用されていた。
そのこともあり奥平氏(徳川家康の重臣であった奥平信昌の子)本多氏(本多氏は複数存在し、多弥八郎家、すなわち家康の参謀として知られる本多正信の系列、後に本多平八郎家である本多忠勝の三男の長男の系列)、松平氏(これも複数存在し、奥平氏と同族のもの、深溝松平氏が該当する)、戸田氏、を始めとした譜代大名が立ち代りに入城している。宇都宮吊り天井事件(城主である本多正純が、この城に吊り天井を仕掛け徳川秀忠の暗殺を図ったなどの嫌疑を受け改易となった事件、実際にはそのようなものはなかったが、)の舞台になったりしている。
幕末
また幕末には戊辰戦争(のうち宇都宮戦争、幕府軍2000人と宇都宮上を含む新政府軍600人の戦い、幕府軍の勝利、新政府軍は1000人以上を追加し、幕府軍を追い払うことに成功する)の舞台ともなり、この際城の建築物はほぼ焼失し、さらには城下町も放火により大半が焼失した。
その後会津に存在する旧幕府軍に対する新政府軍の拠点となり、そのまま陸軍の拠点となったが、舞台は下総佐倉へと移転となり、民間に払い下げられ、一帯は公園として整備されることとなった。
現在は土塁と本丸の一部が復元されている。
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