冬姫
ふゆひめ
永禄12年(1569年)、近江六角氏の旧臣の蒲生賢秀が信長に臣従したとき、信長は賢秀の子・氏郷(当時は鶴千代)を人質として取ったが、その鶴千代の器量を早くから見抜いて、冬姫を与えて娘婿として迎えた。氏郷と冬姫の関係は良好で、2人の間には息子の蒲生秀行と娘(前田利政室)をもうけている。
文禄4年(1595年)、夫の氏郷が40歳の若さで他界する。
氏郷死後、氏郷と冬姫との子の秀行は会津から宇都宮12万石に減封・移封され、冬姫も共に宇都宮に移ったが、関ヶ原の戦いで秀行が東軍に与して功を挙げたことから会津60万石に戻される。しかし慶長17年(1612年)に秀行が30歳の若さで死去し、その跡を継いだ孫の蒲生忠郷は寛永4年(1627年)に25歳で死去した。忠郷には嗣子がなく、蒲生氏は断絶しかけたが、冬姫が信長の娘であることと、秀行の妻が徳川家康の娘(秀忠の妹)振姫であったことから特別に、冬姫の孫に当たる忠知(忠郷の弟)が会津から伊予松山藩20万石へ減移封の上で家督を継ぐことを許された。その忠知も、寛永11年(1634年)に嗣子なくして早世し、結局は蒲生氏は無嗣断絶となった。冬姫は寛永18年(1641年)5月9日、81歳で死去した。法名は相応院月凉心英。墓所は京都の知恩寺。
近年の研究では、彼女は「冬姫」という名前ではないとする見解も出てきている。「永禄十二年冬姫を嫁がせた」という文章が、実際は「永禄十二年の冬に姫を嫁がせた」と意味なのが、「永禄十二年に冬姫を嫁がせた」と誤読したのではないか、という指摘である。その指摘が正しいとすると、彼女は本名不明ということになり、「相応院」という院号で呼ぶ方が適切ということになる。
戦国大戦において
父・信長や夫である氏郷とともに、織田家の武将として「1570 魔王上洛す」より参戦。
見出し画像はカードイラストがモデルになっている。
『私に相応しいか、試してあげる』(虎口攻め時)や、『やっぱりあなたは、私に相応しくない相手ね』(落城勝利時)など、相手を試しているかのような台詞が多い。
スペックはコスト1 武力2/統率4の弓足軽で、特技は「魅力」。
戦力と言うには物足りないが、他の女性武将と比較しても同等クラスである。
持ち計略の「陣頭援護」は、使用時に「範囲内に居る武将」の中で「最も武力の高い」武将が、「自軍の中で先頭に位置」しているときに回復効果を発揮する計略。
制約が多いが、必要な士気が3と軽めなのが特徴。
他勢力の武将でも使えるため、柔軟性は高い。
「気合」を持つ武将(織田の前田利家や、上杉の甘粕景持など)の援護にはうってつけだろう。
「誰よりも強く、勇敢で、聡明で……
そんな男が、私の夫にふさわしいわ」
コメント
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みえるひと、学パロ冬姫(明姫)です。 以前書いていた『もっともっと』(https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=7049889)の前日譚というか、くっつく時の話。 本当はこれを上げる前に、学パロ編軸のハセ編を書いてから、とずっと思っていたのですが、あまりにもそっちまで手が回らないので、さっさと書けてるのから上げます。いつか書く……。 書いたのが10年近く前まので文章古いところもありますが、書く書く詐欺している明姫支援のつもりで……。 いまでもたまにポチポチ明姫やみえるひとにブクマ頂けて本当にうれしいです。 本当に励みになります。まだまだ書きたい話いっぱいあるので、のんびり書いていきたいです。 はあ~~~~、明姫もっといっぱい増えて~~~~~。 そして岩代先生の漫画が読みたいです。18,437文字pixiv小説作品