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宇都宮忠綱

うつのみやただつな

宇都宮忠綱とは宇都宮成綱の長男で、尚綱と興綱の兄である。後に父の成綱が死去すると正式に第18代目当主となるが、家中強化を強要した為に追放された。(1497年-1527年)
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芳賀氏の抗争編集

1497年、宇都宮成綱の長男として誕生する。(なお忠綱が誕生した同年にはあの毛利元就も誕生した年であったりする。)


当時宇都宮家は古河公方足利家の内乱や芳賀高勝(芳賀高経の兄)との抗争が起こっていた時期であり、忠綱はその最中で誕生したとされる。


1511年、父が芳賀高勝によって強制隠居させられると翌年に第18代目当主となる。しかし父は家中の完全掌握を狙い敢えて忠綱に家督を譲ったとされる。


また父の成綱は末弟・宇都宮孝綱(塩谷孝綱)を塩谷家の養子に出して家督を継がせており、更にはもう一人の弟である宇都宮兼綱(武茂兼綱)を武茂家に家督を継がせるなどとして次第に家中を纏める事に成功する。


そして同年、成綱は一瞬の隙を逃さずに芳賀高勝を謀殺。芳賀一族は反乱を起こすが成綱は近隣の豪族と協力して芳賀一族を殲滅。これにより芳賀氏の戦力を弱体化させたのである。


正式に宇都宮家18代目当主就任編集

1516年、父の成綱が49歳で死去すると名実共に宇都宮家18代目当主に正式就任した。忠綱は叔父2人に支えられて父の遺志を継ぎ、下野宇都宮家の更なる躍進を狙う。


笠間氏や伊達家など積極的に外交を行い、家中支配のさらなる強化も行っている。成綱が没した後も足利高基との関係は良好だった。また、那須家の後継者争いにも介入したりなど勢力拡大に積極的に乗り出した。


このまま行けば、彼も父を超える大名になるはずだったが・・・・。


家中混乱と追放編集

しかし、成綱が没したことによって同盟関係である結城政朝との関係が次第に悪化。室町時代の頃の下野国旧結城領を巡って両者の間に確執があったとされる。また、忠綱は結城政朝の器量を恐れた。


更に家中支配を強化したが故に芳賀氏、笠間氏、塩谷氏らを中心とする忠綱による家中支配の強化に不満を持った宇都宮家中の一部が忠綱と対立。


更に高勝の弟である高経らは結城氏の結城政朝と内通し、忠綱と対立した宇都宮家中は成綱の三男(忠綱の弟)である宇都宮興綱を19代目当主として仕立てあげようとした。


そして1523年、結城政朝が攻めて来ると忠綱は宇都宮猿山で結城勢と対戦するが敗北。忠綱は宇都宮城に撤退を図るが、既に宇都宮城は芳賀高経一派の手の中にあった事により入城できなかった。


忠綱はやむを得ずに壬生綱房が籠る鹿沼城に身を寄せた。この合戦で結城政朝は下野国の旧結城領を宇都宮氏から奪取した。


同年忠綱は旧領回復を図り皆川領に攻撃を開始。(河原田合戦)しかし、結城・小山連合軍の到着により撤退した。


その後忠綱は軍事行動を積極的に行い宇都宮城奪還を図るが失敗。そして1527年、宇都宮城に戻る事無く忠綱は30歳で死去した。(一説では壬生綱房に裏切られて暗殺されたとも言われる。)


その後の宇都宮家編集

父・成綱が築いた基盤はこの家中内乱で弱体化。兄の後を継いで当主に就任した興綱は後年、高経と対立して討たれる。


忠綱の弟で興綱の兄である尚綱が家督を継いで高経を討つ事に成功するも、1549年の那須家の戦争で戦死して壬生綱房が独立して実権を握った。


尚綱の子である宇都宮広綱の代になると宇都宮家は北条家や上杉家と同盟して立て直すも1597年、国綱の代で宇都宮家は改易となった・・・。


信長の野望編集

蒼天録PK版に登場しているが、壬生綱房芳賀高経らの謀略によって弱体化した宇都宮氏の武将は、信長の野望シリーズでは、過小評価をされている。忠綱もその影響か、政治38統率28知略39と下野宇都宮家当主の中で最弱武将である。



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