結城政朝
ゆうきまさとも
1479年、結城輝朝の嫡男として誕生。だが、誕生して2年後に父が31歳で病に倒れて死去した為に3歳で家督を継いだ。
だが、政朝が幼少である事が災いして実権は重臣の多賀谷和泉守(多賀谷祥永とも?多賀谷朝経の子)が握り専横を振るった。また父の家督相続に反対して実子を結城家当主に仕立てようとした山川景貞もこの事にかかわっていたとされる。
成人した政朝は1499年に家臣・多賀谷基泰の勧めで和泉守を討ち、実権を奪回。(景貞も同時期に死去している)
そして政朝は家臣団の再編を行い同族の山川家や水谷家、多賀谷家らとの主従関係を調整した。同時期には下野宇都宮家第17代目当主・宇都宮成綱の娘を娶る。この事から同じく成綱の娘を娶っていた足利高基と成綱の長男である宇都宮忠綱との関係は義兄弟となった事で同盟関係となる。
1514年の永正の乱では成綱とともに古河公方の内紛の時は高基側に味方し、政氏救援にやってきた佐竹義舜・岩城由隆・那須資房の連合軍を破った。成綱との関係は良好であり、宇都宮家と結城家は強力な同盟関関係は崩れなかったに見えた…。
ところが、その関係は脆くも崩れ去った。それは1516年に成綱が49歳で死去した事だった。この一件から次第に忠綱は政朝の能力を疎み、関係が悪化し始めた。更には忠綱が結城領を攻めようと考えた事や政朝は下野の旧結城領の奪還を目論んだ。
そして決定打となったのが、政朝の元に芳賀高経を始めとする生き残りの芳賀一族が頼った事と1523年の河原田合戦の一件だった。同年に政朝は猿山で忠綱を撃破して追放し、忠綱の弟である宇都宮興綱を当主として就任させた。
領土拡大に成功した政朝は旧領地を回復し、下野にまでその勢威を拡大したのである。だが、一方で、重臣であった多賀谷氏・水谷氏・山川氏が独自の支配権を打ち立てるようになり、以後の結城家当主の課題となっていく。
その後は小山氏の内紛に乗じて三男・高朝を小山氏当主に擁立し、小田氏などとも抗争を繰り広げた。政朝は「結城氏中興の祖」と伝わる。
1547年7月13日(7月29日)に68歳で死去した。家督は長男の政直が継いでいたが、1532年頃に早世した為に次男・政勝が継ぐ事となった。
ゲーム
『信長の野望』シリーズ
結城氏中興の祖と言われた結城政朝は嵐世記から登場。初登場から
采配 | 智謀 | 政治 | 野望 |
---|---|---|---|
81 | 93 | 87 | 81 |
と80越えのステータス持ちで登場した。
流石にやりすぎたのか蒼天録ではステータスが弱体化したが、天道PKでは再び再強化されてほぼ70以上に上昇した(政治に関しては初登場時に匹敵する86まで上昇。)。
創造PKではまた弱体化したが、武勇と政治が-5された代わりに統率が再び80台に戻った。(知略は前回と同じ数値)