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那須資房

なすすけふさ

那須資房とは下那須家第4代目当主。後に上那須家も統一し、那須家第17代目当主(統一那須家から見た場合は初代当主)に就任した。(????-1552年)
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上那須家の乱編集

彼の父は下那須家第3代目当主・那須資実で、母は上那須家3代目当主・那須明資の娘。父の死後は家督を継いで当主となる。


1514年、上那須家当主・那須資親が死亡。しかし資親には2人の息子がおり、1人は実子の資久で、もう一人は白河結城家から養子として貰った資永がいた。


その結果、実子の資久と養子の資永による家督争いが勃発。資房は資久を支援しようとしたが、乱の最中に資久は資永の手によって討たれてしまった。


那須家が白河結城家の傀儡になる事を嫌った資房は資永を滅ぼして、子の政資を上那須氏の当主に仕立てて、自ら家中を統一。同時に統一那須家初代当主に就任した。


功臣の追放と白河家との抗争編集

資永を討った資房は共に協力した大田原貴清に一字を与えて資清に改名させるなど、優遇した。しかし家中は資清の事を思っておらず、同じく上下那須家統一に貢献した同僚の大関宗増の讒言によって資房は1518年に資清を追放してしまった。


また資永を討った事は資永の実の兄で白河結城家当主・白河顕頼にも知られてしまった。1520年、顕頼は岩城常隆、宇都宮家らと連合して資房に攻撃を開始した。資房は窮地に陥るが、佐竹家の仲介で岩城常隆の娘を子の政資に娶わせて窮地を脱した。


後に資房は子の政資に家督と実権を譲って隠居した。資房が隠居した頃には復帰した資清が大関宗増の子・増次を討った後に大田原・大関・福原の三家を支配して那須家中でも最有力の実力者となったり、息子・政資と孫の高資が争っている。


1551年には孫の高資が宇都宮広綱の調略を受けた家臣・千本資俊に謀殺されて、高資の弟である資胤が当主になった後の1552年に死去した。


信長の野望編集

蒼天録PKにて初登場。その後間を開けて創造PKにて再登場。登場した2作とも生年が1476年に設定されている。

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