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宇都宮興綱

うつのみやおきつな

宇都宮興綱とは宇都宮成綱の三男で、忠綱、尚綱の弟。後に兄・忠綱の追放に伴い第19代目当主となるが、家臣と対立。最終的に強制隠居させられた挙句、自害させられた。(1514年-1536年)
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概要編集

1514年、宇都宮成綱の三男として誕生。前年に兄の尚綱(宇都宮広綱の父)が誕生している。


1516年に父が死去すると兄・忠綱が当主となる。しかし忠綱は強硬政策(家中強化)を政策した為に、家臣・芳賀高経壬生綱房、果ては姉婿の結城政朝と対立。


その最中の1523年に兄・忠綱が政朝に敗れると忠綱は宇都宮城から追放され、忠綱の圧政に不満を抱いた芳賀高経ら反忠綱派の家臣に擁立された。


しかし後に成人して独自の行動を取るようになると芳賀高経、壬生綱房と対立。だが、後に高経に主家乗っ取りを咎められて1532年に強制隠居、果ては4年後の1536年に自害を強要された。


興綱はやむを得ず22歳の若さで自刃して果てた。なお自害を強要した高経は1541年に謀反を起こそうとするが、興綱の兄である尚綱に討たれた。


余談編集

旧説では生年は1475年で宇都宮正綱の四男で成綱の弟とされていた。また忠綱は彼の甥に当たる人物で尚綱は興綱の息子である。また興綱は芳賀氏に養子に出されていた説もあった。


また本家を継いだ理由も忠綱のやり方に反発。反忠綱派の家臣と共同して乗っ取ろうという理由もあったとされる。


最終的に1536年に家臣と対立、強制隠居、強制自刃までは同じだが61歳で死んだという事になっていた。


しかし現在は『群書系図部集』所収「宇都宮系図別本」や『系図纂要』所収「宇都宮系図」によれば宇都宮成綱の三男である事が正解だとされる。


信長の野望編集

覇王伝PK~天翔記、嵐世記~蒼天録まで登場したが、天道PK以降は登場せず。こちらの興綱は旧説(1475年誕生)を元にしている。

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