壬生綱房
みぶつなふさ
壬生綱房(1479~1555)とは、日本史における戦国武将の一人。宇都宮家中宿老中の一人で権謀術数を駆使して2人の当主を暗殺し、更には宇都宮城まで乗っ取って下克上を達成し、下野国の大半を有する実力者となった。
宇都宮錯乱で活躍した壬生綱重の嫡男。壬生氏は宇都宮氏の一門横田氏の庶流で「業」の字を通字にしていたが、宇都宮氏に従属した際にその証として「綱」の一字を賜った。宇都宮成綱、宇都宮忠綱、宇都宮興綱、宇都宮尚綱の4人の君主に仕えた。
綱重が在命中は壬生城の城主を任されていた。
1516年に宇都宮家を一代にて北関東最大の勢力に築きあげた奇蹟の武人宇都宮成綱が没し、さらに父壬生綱重も没すると鹿沼城の城主となる。1520年の浄宝寺縄吊るし合戦で功を挙げている。当主の宇都宮忠綱が宇都宮家中の支配体制を強硬に強化したことや、宇都宮錯乱での芳賀高経を巡る処遇、壬生家の優遇などで家臣団の不満が高まり、笠間家の笠間資綱・笠間綱広父子などが忠綱に対して敵対する。綱房は宇都宮忠綱の近臣である永山忠好などとともに反忠綱派の芳賀家や笠間家、塩谷家などと敵対する。大永の内訌と呼ばれた宇都宮家の内訌は後の代まで多大な影響を与えており、宇都宮家が弱体化した大きな原因ともなっている。その後宇都宮家はかつての同盟勢力だった結城家の介入を招いてしまう。忠綱の代になると結城政朝と険悪な関係になっており、反忠綱派の勢力が結城政朝と結んだという。1523年に猿山合戦で宇都宮忠綱軍が敗北すると芳賀高経などの反忠綱派の勢力が宇都宮成綱の末子でまだ幼い宇都宮興綱を擁して宇都宮城を占拠。忠綱は追放されてしまい、綱房は忠綱を鹿沼城へ招き、庇護した。その後、忠綱の復帰を狙い皆川家や結城家・小山家などと度々戦うが、綱房は忠綱を見限り、密かに興綱達と結び、1527年に忠綱を暗殺した。その後は宇都宮興綱に仕え、地位と勢力をどんどん拡大していく。そのころから野心を抱くようになり、関東で強大な軍事勢力を誇る寺社勢力の日光山の完全掌握を企てる。綱房は既に「日光山神領惣政所」の地位にあり、大永年間(1521年~1528年)には日光山神領の支配の実権を掌握しつつあったという。その最後の押しとして二男の昌膳を日光山に送り込み、1530年には座禅院主になったという。これによって聖俗両面で日光山を掌握することに成功している。
一方、宇都宮家中内でも傀儡とも言える幼君興綱を利用して地位をどんどん上げており、宿老中の筆頭である塩谷孝綱や芳賀高経に並ぶ実力者へとなった。やがて興綱が成人するにつれて傀儡としての利用価値がなくなると、芳賀高経とともに主家乗っ取りの罪を理由に隠居に追い込んで成綱二男の宇都宮俊綱を擁立した。さらには隠居させただけでなく、興綱をさらに追いつめ自害させた。
天文年間(1532年~1555年)には嫡子の綱雄に家督を譲渡し、隠居の身になったが、影響力は健在であった。那須氏・小山氏・結城氏を巡る方針で芳賀高経との間に亀裂が生じる天文の内訌という内訌が起こると当主の宇都宮俊綱や一門の上三川家をうまく味方につけて高経を失脚させ、生涯させてしまう。さらに芳賀氏と緊密な関係を築いていた宿老中の筆頭塩谷孝綱も強硬な行為に反発し、離反してしまう。こうして宇都宮家中のトップ2人を失脚させ、遂に壬生家は筆頭宿老としての地位を獲得した。しかし、この天文の内訌によって新当主壬生綱雄の影響力が低下し、さらに昌膳が乱を起こしてしまうと、俊綱は上三川家出身の昌歆に新たに座禅院主を継がせたために不満を抱き綱房ら壬生家も離反してしまう。
1549年に喜連川五月女坂の戦いで宇都宮尚綱(俊綱が改名した名)が没すると、綱房・綱雄父子は宇都宮城に兵を進め占拠してしまう。まだ幼君である伊勢寿丸(後の宇都宮広綱)は芳賀高定によって救出され、真岡城に逃れた。
綱房は芳賀高経の子である芳賀高照を名目上城主として招くが、傀儡として利用するためだけであり実質的な城主は綱房・綱雄父子だった。
綱房は芳賀家以外の旧宇都宮家臣を集め、実質的に壬生家は旧宇都宮領の大半を吸収して下克上を達成し、没するまで活動した。また、実質的な下野の覇者として北条氏康や那須高資と結び、芳賀高定を追いつめたが1555年に没した。綱房の死後、芳賀高定による本格的な反撃が始まった。
ゲーム『信長の野望』シリーズ
宇都宮家で数々の暗躍を行った綱房は信長の野望でも高評価されており、智謀、政治がかなり高い。しかし、壬生家が宇都宮城を乗っ取ったエピソードや日光山神領惣政所の地位を持っていることは見事にスルーされている。