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宇都宮尚綱

うつのみやひさつな

宇都宮尚綱とは宇都宮成綱の次男で、忠綱の弟で興綱の兄。弟が強制隠居させられた事により第20代目当主となって弟の敵を討つも、那須家との戦いで討死した。(1513年-1549年)
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僧籍から第20代目当主に就任

1513年、宇都宮成綱の次男として誕生。翌年に弟の興綱が誕生している。初名は俊綱(としつな)。

3年後に父が死去すると兄の忠綱が当主となるが、強硬政策(家中強化)を政策した為に、家臣・芳賀高経壬生綱房、姉婿の結城政朝と対立していた。

1523年に兄・忠綱が政朝に敗れると忠綱は宇都宮城から追放され、弟・興綱が家臣に第19代目当主として擁立された。

この頃の俊綱は慈心院に入り僧籍として平穏な生活を送っていたとされる。このまま無事に暮らせると思われたが・・・・。

1532年、弟・興綱が家臣と対立して幽閉されるとやむを得ず還俗して第20代当主となる。

芳賀高経を討つも那須家の一戦で死す

この頃になると宿老・壬生綱房の専横が更に目立つようになり、更に芳賀高経に謀反の兆しがあるなど宇都宮家は内部混乱が多かった。

1541年、芳賀高経が結城家や皆川氏・小山氏と通じて謀反を起こすと壬生綱房と共に弟を滅ぼした高経を討ち、家中を掌握する。更に高経の息子2人(高照高継)を追放して益子勝宗の三男・高定を養子に送り込み、積極的な勢力拡大に乗り出した。だが、その代償として叔父であり宿老中筆頭の塩谷孝綱(宇都宮成綱の弟)が離反し、那須氏と結んでしまった。さらに宿老の壬生綱房綱雄父子も尚綱の強硬な政策に反発し、喜連川五月女坂合戦前に離反している。

しかし那須家の内乱に関わった事(尚綱は那須政資に味方したから?)や追放したはずの高照が政資の長男・那須高資に助けを求めた結果、高資は大義名分を得て宇都宮攻めを開始した。

1549年、尚綱は足利晴氏の下知を受け2500騎の軍勢を率いて喜連川に出陣した。(この戦いを喜連川五月女坂合戦という。)

当初は尚綱が圧倒していたが、高資は五月女坂に伏兵を設置して宇都宮軍を混乱させる事に成功。

この結果、宇都宮軍は総崩れとなった。状況を打破しようと多功長朝らは善戦するが打破出来る筈も無く満川忠親、横田五兄弟(綱維、維業、弥業、茂業、業通の5人兄弟)は討ち取られた。

尚綱は混乱を鎮める為に自軍を統制するために前線に出撃するが、最後は伊王野資宗の家臣である鮎ヶ瀬実光に射抜かれて死亡した。享年36歳であった。

その後

尚綱の死によって壬生綱房が下克上を果たし、宇都宮城を占拠。城内にいた伊勢寿丸は芳賀高定に連れられて真岡城に逃亡。

更に綱房は高照を宇都宮城に迎え入れて傀儡として利用し、実権を掌握。塩谷義孝ら家臣も綱房に従った。高資は壬生綱房と結んだ事により、1555年に壬生綱房が死去するまで、宇都宮氏は滅亡の危機に晒される事となった・・・。

余談

旧説では生年は1年早い1512年生まれで興綱の息子という説が有力であったが、現在は成綱の次男という説が有力とされる。

信長の野望

覇王伝PKから初登場。こちらも興綱と同じく旧説(1512年生まれで興綱の息子)が採用されている。天道PK以降は登場しなくなった父・興綱と異なり、創造PKでも続投している。

ちなみに天道以降は旧説が廃止され、生年が史実通りの1513年になった。しかし説明文では興綱の嫡男扱いのまま。

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