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宇都宮尚綱

うつのみやひさつな

宇都宮成綱の次男。都合により第20代目当主となり、那須家との戦いで討死した。
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僧籍から第20代目当主に就任編集

1513年、宇都宮成綱の次男として誕生。翌年に弟の宇都宮興綱が誕生している。初名は俊綱(としつな)。


1523年頃には慈心院に入り僧籍として平穏な生活を送っていたとされる。しかし、1532年にはやむを得ず還俗。兄の宇都宮忠綱、弟の興綱に続く形で、第20代当主となる。


芳賀高経を討つも那須家の一戦で死す編集

この頃になると宿老・壬生綱房の専横が更に目立つようになり、更に宇都宮家は内部混乱が多かった。


1541年、謀反を起こした芳賀高経を壬生綱房と共に討ち、家中を掌握する。更に高経の息子2人(高照高継)を追放して益子勝宗の三男・高定を養子に送り込み、積極的な勢力拡大に乗り出した。


だが、その代償として叔父であり宿老中筆頭の塩谷孝綱(宇都宮成綱の弟)や、宿老の壬生綱房壬生綱雄が離反している。


しかし那須家の内乱に関わった事や追放したはずの高照が政資の長男・那須高資に助けを求めた結果、高資は大義名分を得て宇都宮攻めを開始した。


1549年、尚綱は足利晴氏の下知を受け2500騎の軍勢を率いて喜連川に出陣した。


当初は尚綱が圧倒していたが、高資は五月女坂に伏兵を設置して宇都宮軍を混乱させる事に成功。宇都宮軍は総崩れとなった。満川忠親、横田五兄弟(綱維、維業、弥業、茂業、業通の5人兄弟)は討ち取られた。


尚綱は混乱を鎮める為に自軍を統制するために前線に出撃するが、最後は伊王野資宗の家臣である鮎ヶ瀬実光に射抜かれて死亡した。享年36歳であった。


その後編集

尚綱の死によって壬生綱房が下克上を果たし、宇都宮城を占拠。城内にいた伊勢寿丸は芳賀高定に連れられて真岡城に逃亡。


更に綱房は高照を宇都宮城に迎え入れて傀儡として利用し、実権を掌握。塩谷義孝ら家臣も綱房に従った。

信長の野望編集

覇王伝PKから初登場。創造PKでも続投している。

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