概要
明治維新と呼ばれる社会変革を起こした日本。しかし海外から取り入れた文化・諸制度はまだ未熟で、なおかつ、江戸時代末期、幕府が諸国と結んだ不平等条約(治外法権・関税自主権など)の改正を目指していた。
海外の文化・技術の視察と不平等条約の改正のための予備交渉をするため、明治政府は海外に使節団を派遣することを決定。その使節団のトップが岩倉具視だったことから、「岩倉使節団」と命名、留学生も同行した。
ルート
横浜(1871(明治4)年11月14日出発)→アメリカ合衆国→イギリス→フランス→ベルギー→オランダ→ドイツ→ロシア→デンマーク→スウェーデン→イタリア→オーストリア→スイス→セイロン→シンガポール→サイゴン→香港→上海→横浜(1873(明治6)年9月13日到着)
※日付は全て太陰暦。
メンバー
特命全権大使
副使
その他の役職
- 書記官(1等~4等)
- 大使随行
- 理事官
- 随行
その他留学生が同行しており、津田梅子や中江兆民がメンバーとして同行した。また通訳者として新島襄も同行している。
元々、大蔵大輔・大隈重信の提案では小使節団の予定だったが、政府の思惑もあり合計107人の大使節団となった。
実績と問題
使節団は海外の目新しい文化や技術に触れ、多大な影響を与え、留学生の中には後の日本の教育の発展に貢献することになる人物と含まれており、文明開化の一翼を担った。
しかし首脳が1年も日本を留守にしたことや、国家権限を超えて条約改正を進めたこと、木戸と大久保の不仲による政治的問題も指摘されている。
この間、日本では参議(陸軍大将)・西郷隆盛、参議(司法卿)・江藤新平ら実権を掌握、朝鮮王朝との外交が問題となり、西郷自身が特使となることが留守政府内で審議された。
が、これらの審議は岩倉使節団のあずかり知らぬことでもあったため、帰国後、使節派と留守政府派の対立は抜き差しならないものとなり、政争に敗れた西郷、江藤らは下野、やがて佐賀の乱、西南戦争へとつながっていった。
比喩表現としての岩倉使節団
イラストなどで、5人が座って並んでいる構図にこのタグが洒落で付けられている。これは岩倉使節団の紹介に、岩倉・大久保・木戸・伊藤・山口が5人で座っている写真が多く使われているからだと思われる。
また「ご注文はうさぎですか?」のOPの最後のカット(5人の集合)に対し、ニコニコ動画で「岩倉使節団」とコメントされることがある。