概要
弘化四年(1847)11月1日、土佐国の城下町に生まれる。幼名竹馬、のち篤助・篤介と称す。父元助は土佐藩の足軽で、兆民の生まれたころは下横目役(今で言う地方警察の巡査的ポジション)であった。
慶応元年(1865)9月、土佐藩留学生として英学修業のため長崎派遣を命ぜられるが、長崎では平井義十郎に就きフランス学を学ぶ。留学中に坂本竜馬と知り合う。同2年、江戸遊学を望み、後藤象二郎の援助で江戸に赴き、村上英俊の達理堂に入る。大政奉還から明治維新政府成立のころには、フランス公使ロッシュ、領事レックの通訳として関西に滞在する。明治三年5月、大学南校の大得業生となりフランス語を教える。
同四年、外国留学を志し、大久保利通に直接訴える。大久保は面識のない中江に、同じ土佐藩閥の板垣を頼れば良いと言ったが、中江はあえて同郷の縁を頼らず赤の他人の大久保に頼みに来たと語り、大久保はその意気に応じる。西郷隆盛との対比で冷徹に思われる大久保の意外に人情味のあるエピソードであった。
かくして中江は、大久保・板垣退助・後藤の斡旋で、司法省九等出仕となりフランス留学を命ぜられ、同年十一月12日、岩倉具視全権大使一行とともに横浜を出航する。リヨン・パリにあって法律勉強のかたわら、哲学・歴史学・文学に関心を寄せる。留学中、西園寺公望・井上毅らと知り合う。政府の海外留学生召還の方針により、七年6月帰国。八月、東京にフランス学の塾を開くため東京府知事に願書を提出し、10月、東京麹町に仏蘭西学舎(のち仏学塾)を開く。
東京外国語学校長、元老院権少書記官を歴任。1881年、西園寺公望らと『東洋自由新聞』を創刊し、主筆として自由民権論を唱え、1882年には仏学塾から『政理叢談』を刊行し、『民約訳解』を発表してルソーの社会契約説を紹介するほか、西洋の近代民主主義思想を伝え、自由民権運動の理論的指導者となった。自由党の機関紙『自由新聞』に参加し、明治政府の富国強兵政策を厳しく批判。1887年『三酔人経綸問答』を発表、また三大事件建白運動の中枢にあって活躍し、保安条例で東京を追放された。1888年以降、大阪の『東雲新聞』主筆として、普通選挙論、部落解放論、土著民兵論、明治憲法批判など徹底した民主主義思想を展開した。憲法の審査を主張して、1890年第1回総選挙に大阪4区から立候補し当選したが、第1議会で予算削減問題での民党一部の妥協に憤慨、衆議院を「無血虫の陳列場」と罵倒して議員を辞職した。その後実業に関係するが成功しなかった。『国会論』『選挙人目さまし』『一年有半』などの著書があり、『理学鉤玄』『続一年有半』では唯物論哲学を唱えた。漢語を駆使した独特の文章で終始明治藩閥政府を攻撃する一方、虚飾や欺瞞を如実に嫌う行動精神は世人から奇行とみられた。明治34年(1901)12月13日に死去。
彼の遺言は、
だった。