概要
1646年にウェストミンスター校に入学。1652年にオックスフォード大学のクライスト・チャーチに入学するも古典を学ぶことに疑問を持ち、ルネ・デカルトの著書に触れたことで哲学に関心を持つこととなった。
1658年にはオックスフォード大学特別研究員となり、1660年には同大のギリシア語講師、1662年には同大の修辞学講師を務めた。
1666年にはオックスフォードにやってきたシャフツベリ伯爵アントニー・アシュリー=クーパーと知り合い、ロックの思想を気に入ったシャフツベリに以降愛顧を受けるようになった。1667年シャフツベリの私設秘書官、主治医となる。
1673年には通商植民地委員会の主事に就任し翌年まで務めるが、1673年にシャフツベリは下野。
1682年にシャフツベリが反逆罪に問われオランダに亡命。ロック自身も王からの迫害を恐れて1683年にシャフツベリのいるオランダに亡命した。
名誉革命が1688年に起きると翌1689年に帰国し、以降執筆活動を盛んに行うようになる。
代表作である『統治二論』『人間悟性論』は、帰国した1689年に出版され、特に統治二論は名誉革命後のイギリス体制の理論的支柱となった。
抵抗権
人間には生命・自由・財産を守る権利があり、一人ひとりが自分の権利を政府に預ける代わりに国家はその権利を守る約束を一人ひとりとしなければならない、とロックは考えた。
そして、もしもこの約束を国家が守らない時には人々は既存の政府に抗って新しい政府を選び直す権利があると主張した。
これが抵抗権である。
この考え方はアメリカの独立に多大な影響を与えた。