富山弥兵衛
とみやまやへえ
天保14年(1843年) - 明治元年閏4月1日(1868年5月22日)
隊士には珍しく薩摩藩の出身で、一説には間者として入隊しようとしたのを近藤勇が疑ったが、伊東甲子太郎が「薩摩藩とのつなぎになる」と口ききをしたという。
元治元年(1864年)11-12月頃までに新撰組に入隊し、元治元年末に作成された「行軍録」においては、富山は四番隊組長である松原忠司の指揮する七番大砲隊一員に挙げられていて、翌年の元治二年(1865年)には伍長を務めた。
しかし、慶応3年3月10日(1867年4月14日)に伊東が結成した御陵衛士に参加し新撰組を脱退したがその後、同年の11月18日に伊東が近藤の妾宅での酒宴に誘われ、その帰り道の油小路にて待ち伏せていた大石鍬次郎ら数名の隊士に襲撃され命を落とす。
富山は伊東の遺体を引き取るために同志の藤堂平助や篠原泰之進ら衛士7名と共に油小路へ向かいそこに待ち伏せていた新撰組40名と交戦した。(油小路事件)
そして、油小路を脱出して薩摩藩邸に保護された。その後、伏見街道で篠原や阿部十郎ら御陵衛士残党と共に二条城からの帰路にある近藤を襲撃した。
慶応4(1868年)年1月の鳥羽伏見の戦いでは薩摩藩一番隊として戦ったが、同月4日、鳥羽方面の戦闘で、重傷を負ったという。5日に鈴木三樹三郎らは赤報隊二番隊として京都を出立したが、この傷のためなのか、富山は参加しなかった。傷が癒えた2月、富山は東征軍に加わって江戸まで行くが、まもなく京都に戻った。
同年4月下旬、新政府軍参謀黒田清隆の命により、富山は越後方面の探索に出発した。富山は騎馬で出雲崎に入ったが、探索中に水戸諸生党に怪しまれ(理由は大崎屋という宿屋で馬を下りた際、下り方が見事だったため)、捕らえられてしまう。しかし、翌朝、すきをみて縄を切り、短刀を取り戻して逃げ出した。富山は吉水村(くそうずむら)まで逃げたが、槍を手にした水戸の脱走兵数十名に追いつかれ、四方から槍で突かれ殺害された。享年26
富山の首は槍に突き刺されて出雲崎に戻り、そこで3日間鳩首されたが、遺体の始末を命じられた吉水の庄屋・山田方一によって、遺体は教念寺境内の鐘楼の傍らに埋葬した。
- 上記の件もあって富山は伊東を尊敬し、文武に励み、後には薩摩藩大久保一蔵に引き合わせたという。
- 御陵衛士の残党が薩摩藩邸に保護されたのは富山の口利きがあったからだという。
- 富山の戦死の状況を聞き取った篠原は、薩摩藩士後藤栄之丞とともに教念寺の住職と庄屋の山田を呼び出して、遺体埋葬を謝すとともに、富山を神霊に擬して玉垣をつくって安置した。村人は銘々旗を立てて祝ったという。
- 山田は私財を投じて小さな神社(富山神社)を建立した。山田が存命中は祭礼を欠かさなかったという。