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三木三郎

みきさぶろう

新撰組九番組長、御陵衛士、赤報隊二番隊長。 生涯で何度も改名しており、鈴木三樹三郎の名でも有名。 伊東甲子太郎の実弟。
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概要

天保8年(1837年)、常陸志筑藩士※鈴木専右衛門の次男として生まれる。初名は鈴木多門。実兄に鈴木大蔵(後の伊東甲子太郎)。
父専右衛門は上司と諍いを起こし藩を追放され、漢学塾を開くが程なくして死去。鈴木は16歳で父の塾を継ぐが、合戦ごっこばかり行ったため次第に塾生は離れ、閉鎖に追い込まれた。
その後志筑藩士寺内家の養子となり藩の役職にも就くが、酒癖の悪さが災いして養子縁組を解消される。鈴木家に戻ることなく三木荒次郎を名乗るが、酒癖は治らず藩の規則を度々破ったため、遂に御役御免となった。
正確には幕末には志筑藩という名の藩は存在せず、8500石の大身旗本本堂家の領地であった。明治になってから石高が見直され、本堂家は1万110石の大名に列せられた。

浪人となった三木は尊皇攘夷活動に身を投じ、関東各地を転々とするが、やがて江戸深川北辰一刀流の道場を構えていた兄伊東甲子太郎(当時の名は伊東大蔵)の元に身を寄せる。元治元年(1864年)に筑波天狗党が挙兵すると、三木は兄の指示で視察に向かった。

同年、兄の寄り弟子であった新撰組藤堂平助が江戸に戻り、伊東を新選組へと勧誘する。伊東は近藤勇との会談の後、入隊を前提とし上洛することを約束。三木も同志らとともに上洛した後、新選組に入隊した。この頃三木三郎を名乗る。
新選組時代の目立った活躍はないが、大坂天満宮総代がその丁重さを讃えた記録があり、対外折衝役としての手腕が認められて組頭に昇進したものと思われる。

慶応3年(1867年)3月、伊東が御陵衛士を拝命し新選組を離脱すると、三木も江戸以来の同志の他、藤堂平助、斎藤一などの隊士とともにこれに加わり、高台寺党を結成する。この時三樹三郎、または三樹和泉と改名した。
11月、伊東が新選組によって暗殺されると、他の御陵衛士とともに遺体を引き取りに向かい、待ち伏せていた新撰組と戦闘。藤堂平助、服部武雄毛内有之助が討死するが、三樹は加納鷲雄富山弥兵衛と共に薩摩藩邸に逃れ匿われる。(油小路事件

鳥羽伏見の戦いが始まると薩摩藩所属として参加。
その後相楽総三らとともに赤報隊を結成し、二番隊長に就く。この時鈴木三樹三郎を名乗る。赤報隊の偽官軍事件が起こると、三樹らは命令に従い帰京。一時投獄されるが、やがて嫌疑が晴れて釈放された。
三樹は軍曹となり江戸へ向かう。この時、新選組を離脱していた永倉新八に偶然出くわしたという逸話がある。

明治維新後は司法や警察職を歴任。明治12年(1879年)には鶴岡警察署長を務め、2年後には明治天皇行幸の警備指揮を執った。
明治18年(1885年)、福島県二等属を最後に退職。
晩年は筆を取る気力も起きないほど衰えていたが、大正7年(1918年)に兄伊東甲子太郎に従五位が贈られると、そのことを日記に記している。翌年7月11日、老衰のため死去。享年82。

名前の変遷

鈴木多門寺内多門(養子入り) → 三木荒次郎
三木三郎(新選組時代) → 三樹三郎(御陵衛士) → 三樹和泉(御陵衛士)
鈴木三樹三郎(赤報隊) → 鈴木忠良(廃藩置県後)

創作の三木三郎

『幕末恋華新選組』の登場人物。
CV 吉野裕行

関連タグ

新撰組 御陵衛士 赤報隊 警察
伊東甲子太郎
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