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概要

天保14年(1843年)、常陸笠間藩士船橋家に生まれる。

元治元年(1864年)に天狗党が挙兵するとこれに影響を受け、翌年脱藩。西へ赴き伊予松山藩士竹内家に仕え、相馬主計または相馬肇を名乗る。

慶応2年(1866年)の第二次長州征討に松山藩兵として従軍。しかし将軍徳川家茂の死去で征討が不首尾に終わると、翌年上洛し、秋ごろに新撰組局長附人数(見習い隊士)として入隊。程なくして平隊士に昇格し、油小路事件に出動したとされる。

12月には隊長付組頭となり、年少の見習い隊士たちをまとめていたとされる。


幕府軍が鳥羽伏見の戦いに敗れると、新選組は江戸に引き上げる。甲陽鎮撫隊では、大石鍬次郎と共に近藤勇(当時は大久保剛を名乗っていた)の側近を固めた。

流山にて近藤が新政府軍に投降すると、土方歳三の指示で勝海舟らの書簡を新政府軍に届けるよう命じられ板橋へ向かうが、近藤の正体がバレたため、相馬は近藤に付き従っていた野村利三郎共々捕縛されてしまう。相馬と野村は近藤とともに斬首されることとなったが、近藤の必死の嘆願により二人は助命された。


その後相馬は笠間藩に引き渡されるが脱走。同じく脱走した野村と落ち合い、春日左衛門率いる陸軍隊に合流し、奥州を転戦。仙台にて土方歳三ら新選組と再会した。

奥州戦線、次いで蝦夷地での戦線にて頭角を表した相馬は、箱館新撰組隊長

陸軍奉行添役として、箱館政庁の準幹部格となる。この時同じ陸軍奉行添役に「主計」の名を持つ者が3人もいたため、相馬は主殿と改名したという。

明治2年3月の宮古湾海戦に土方の幕僚として従軍。甲鉄艦に自ら斬り込んだともいわれ、傷を負う。またこの戦いで盟友野村利三郎が討死した。


5月11日、箱館総攻撃が開始されると島田魁らが守備する弁天台場の防衛に向かうが、弁天台場は孤立。14日には箱館奉行永井尚志と降伏を決め、五稜郭の首脳へその意思を伝えに向かった。相馬はここで初めて土方の戦死を知ったと思われる。

15日、新選組隊士103名と共に降伏。18日には五稜郭も降伏し、戊辰戦争は終結した。これにより新選組は名実ともに終焉を迎えた。


戦犯として榎本武揚ら6名の幹部とともに東京へ送られた相馬は、先に投獄されていた大石鍬次郎の自供により、伊東甲子太郎殺害の容疑をかけられる。相馬は容疑を認めたものの、事件当時は入隊して間もなかったことが考慮され、伊豆諸島への流罪とされる。


明治3年(1870年)11月、伊豆諸島の新島に到着した相馬は、現地の大工の娘まつと出会い結婚。寺子屋を設計から建築まで自分の手で行い、島の子供たちに読み書きを教えて暮らした。

2年後に赦免され、妻とともに東京へ移り住む。

その後、時期や理由は不明だが、妻に他言無用と言い遺し自害したとされる。しかし同名の別人(前述の「主計」の誰かとも)の記録と混同されているという説もある。


薄桜鬼真改の相馬主計

CV:梶裕貴

受け継ぐ者相馬主計くん。(似てなくてすみません。)


リメイク版からの新キャラで攻略キャラ。

雪村千鶴にとって初めての後輩。当初は江戸での新撰組の評判を聞き、悪い印象を持っていたが近藤の人となりに触れ評価を改めた。

野村利三郎と共に入隊し近藤付きの小姓となる。

井吹龍之介とも面識があり錦絵を譲り受けている。


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