概要
1657年(明暦3年)に始まり、編纂作業が終結するのが1906年(明治39年)と、実に249年もの歳月と多額の費用を要した一大事業であった。
資料・文物を収集するため各地に学者を派遣、水戸藩は史局を設置して光圀みずからも編纂作業にあたっている。(水戸藩はこの事業のため慢性的な財政難に陥っている)
内容
神武天皇から1392年(元中9年/明徳3年)の南北朝統一までの天皇の治世を儒教思想に基づいて紀伝体で扱っている。
影響
表高こそ35万石であるが実質28万石である水戸藩は、この編纂事業のために年貢徴収がより峻烈になり、借金も天文学的に増えたと伝えられ、それは幕末に至るまで解消することはなかった。
水戸藩はこの歴史書を教科書として藩士を教育している。この結果、水戸藩士には勤王思想をもつものが多く、幕末においては他藩の武士や学者、浪士にも尊王攘夷という思想になり全国に広まっていった。
開国を主導する幕府上層部は攘夷派を抑えるのに躍起にならざるをえず、大老・井伊直弼は安政の大獄という大弾圧を行い、外部治安組織である新選組を創設するに至った。
攘夷論は薩摩・長州による対外戦争の敗北によりついえることになったが、尊王論は15代将軍・徳川慶喜の大政奉還、戊辰戦争、大日本帝国憲法の発布という歴史的事件にも大きくかかわることになった。
問題点
歴史学に儒教的な善悪二元論が横行し、それが政府見解となるという悪影響をもたらした。明からの亡命者・朱舜水の示唆により南朝正統論を主張する内容となり、後醍醐天皇の建武の新政に反逆した足利尊氏は必然的に逆賊として記述されたため国家の敵みたいな扱いを受けた。結局敗戦まで大日本史イデオロギーから逃れることはできなかった。
南北朝時代以降に関しては、南朝を正統としているが南北朝統一以降は江戸時代も現代も日本の皇室は北朝の男系子孫である。
中国の「正史」の形式を元に書かれているが、中国において、ある王朝の正史は、あくまでも「次の王朝が前の王朝の歴史を編纂し、それを正史とする」のが慣習である。この事と南北朝統一で大日本史が終っている事を考え併せると、大日本史は「南北朝統一で、それまでの日本の王朝は一端滅び、それ以降は新しい王朝の時代である」という前提で編纂された、という戦前なら不敬罪な解釈も可能なものとなっている。