概要
ソ連の二重スパイ。日本を震撼せしめたゾルゲ事件。太平洋戦争にて日本が負け、後にノモンハン事変でソ連に侵略されたのはこのゾルゲによる活躍が大きい。
スパイファミリーのロイドさんもビックリ。実在したスパイファミリーについて紹介したい。
スパイファミリー誕生
1895年、ゾルゲはロシアのバクー(現:アゼルバイジャン首都)で、ドイツ人の父とロシア人の母との間に生まれた。
3歳の時にベルリンへ移住。そのままドイツ人として育てられる。その後ベルリン大学に入学。第一次世界大戦に従軍したが、戦闘中に足を負傷し、長期の入院を余儀なくされる。
ここで看護婦から社会主義論を聞いたことが、ゾルゲの運命を決定づけた。
戦後の1919年、ゾルゲは出来たばかりのドイツ共産党へ入党。そこでゾルゲに与えられた仕事は、党の情宣活動。
人生の転機が訪れたのは1924年、フランクフルトで開かれた共産党大会。ここでゾルゲは、当時共産主義大国であったソ連の大物党員たちと会談する機会を得た。
「全人類が待ち望んでいた社会悪の浄化と、貧困・不正・不平等に侵された世界への根本治療」
若いゾルゲはこの思想へ感動し、心が打ち震えた。
そして党員から「我々とソ連に来ないか」とスカウトされ、ゾルゲはソビエトへ。二度とドイツへ戻ることはなかった。
1930年1月、日中戦争開戦前の上海。ドイツの有力紙「フランクフルター・ツァイトゥング」から1人のスパイが中国へ送り込まれた。
彼は中国事情に精通し、日本文化にも非常に詳しかった。中国語と日本語、ロシア語とドイツ語もペラペラなエリート。現地の記者とも仲良くなって情報もたっぷり盗めるスパイの鑑。
そのスパイこそリヒャルト・ゾルゲその人である。
軍事諜報担当部署から派遣されたゾルゲは、ドイツの新聞記者のふりをして中国でスパイデビュー。
日中文化に精通している彼は漢口、南京、広東、北京、満州などから情報収集。日中の動向及び日本軍の装備・情報を逐一ソ連へ報告。この功績が認められ僅か半年でゾルゲは現地スパイのリーダー格になる。
スパイに協力者は欠かせない。ゾルゲは殺し屋……ではなく
アメリカの左翼ジャーナリスト・アグネス・スメドレー、朝日新聞記者・尾崎秀実。
アグネスも尾崎も共産主義者であり、特に尾崎は生粋。革命成功を心から望んでいた。(ただし、表面上は愛国者・タカ派を装っていた)
彼らを「ゾルゲ諜報団」に引き入れたゾルゲ。スパイファミリーの誕生である。
ゾルゲ諜報団は活動を広げ、中国国民党の指導者・蒋介石の情報、日本軍の機密情報、1932年勃発の第1次上海事変についてもモスクワに送られた。
機密情報まで盗んでくる超有能スパイを、あのファンファン大佐もといスターリンも高く評価していた。
こうして中国での任務にひと段落ついたゾルゲは、活動を次の場所へと移す。米ソとの関係が悪化しつつあった、日本である。
日本での活動
日本での動向をより深く探るため、ゾルゲは東京特派員兼ナチス党員と、新しい身分を用意。駐日ドイツ特命全権大使・オイゲン・オットに接触。
大使のくせに日本に疎かったオット。ゾルゲがソ連のスパイであるとも知らず、ホイホイと日本通の彼を歓迎。
こうして大使館という隠れ蓑を得たゾルゲは、スパイ活動を開始。ナチ党員のふりをし、ソ連だけでなくドイツにも情報を横流しした。
情報の中には二・二六事件のものもあり、ゾルゲの手腕をナチスも評価した。ソ連だけでなく、ナチスも手玉に取ったのだ。
それどころか、第二次世界大戦開戦の1939年には大使情報館に任命され、ドイツの公的文書をも手に入れられるまでになっていた。
そして、中国で家族になった尾崎秀実は近衛文麿内閣の中心人物にまでなっていた。西園寺公一(きんかず)や宮城与徳などの共産主義者をファミリーに引き込んだ。
軍事面を中心に、日本軍の武器弾薬の備蓄量、兵器のデータ、兵器生産設備や物資に至るまで、ありとあらゆる情報がゾルゲを介してソ連へ筒抜けになった。
そして恐るべきことに、ゾルゲのもたらした情報で最たるものが「日本の戦う相手」だ。日本の開戦情報が知りたかったソ連は、日本がアメリカかそれとも我が国か。スターリンはイライラしていた……かは知らないが、ゾルゲからの情報を待っていた。
独ソ戦でドイツに攻められていたソ連は、日本とドイツに挟み撃ちにされる未来を恐れていたのである。
1941年、待ちに待っていた情報がソ連に届く。日本が、南方資源確保のために「帝国国策遂行要領」を決定したというのだ。国会にいた尾崎がゾルゲに横流しした情報。
まさにその時歴史が動いた。さっそくスターリンはシベリアに配置していた全部隊を対独戦に投入。首都の目前まで迫っていたドイツ軍を撃退する。独ソ戦の勝敗は、ゾルゲによってもたらされたのである。
しかしゾルゲの栄光も長くは続かなかった。41年6月、共産党員・伊藤律が逮捕されて、拷問の末に協力者の名前を吐いてしまう。
逮捕者による自白が自白を呼び、特高は芋づる式に逮捕者を引き、ゾルゲの協力者、尾崎秀実まで行き着く。
同年10月、ゾルゲは逮捕される。
たった一人のスパイに日本の機密情報すべてが盗まれていた事実を知った日本政府は震え上がった。
後に「ゾルゲ事件」と呼ばれる、日本の大事件である。
しかし逮捕後もゾルゲは自分がスパイだと認めず、彼がスパイだと知らなかったドイツ大使館やドイツ新聞社もなにかの間違いだとしてゾルゲの釈放を求めた。
一方、スターリンはゾルゲの存在を否定。
「最初からゾルゲなんてのはいなかったんだよ。いいね?」とソ連にしっぽ切りされ見放される。特高の過酷な取調べの末、ついにゾルゲは自供。最も親しかった尾崎と共に巣鴨拘置所に移送、1944年死刑執行。
「共産党バンザイ!」
伝説のスパイは、最後に日本語でこう叫んだといわれる。
ゾルゲの名誉回復がなされるのはフルシチョフ政権になってからの、1964年。ソ連邦英雄勲章を授与され、ソ連の英雄として語り継がれることになった。
ゾルゲの墓は多摩霊園にある。
愛人だった石井和子という女性の手により埋葬された。
参考資料・関連作品
- 黒偉人/彩図社
- スパイ・ゾルゲ/真珠湾前夜⋯1962年公開の映画。ウラジーミル・プーチンがスパイを目指したキッカケになった作品。