"Don't get mad, get even." - Robert F. Kennedy
怒るな、やり返せ。 ―― ロバート・F・ケネディ
負の連鎖
復讐が復讐を呼ぶと言われるように、復讐した側が今度は復讐される側になる事もしばしばであり、泥沼化して終わりの見えない修羅場になる事は0ではない。また、復讐を果たしても埋められない悲しみと虚しさが復讐者を襲う事があり、新たな惨劇の根源となるものもある。こういう事もあり、現在の法律では復讐は認められておらず、それが不法行為なら当然犯罪となる。
極刑である死刑制度は被害者が復讐者(殺人者)にならないようにする最後の手段となっている社会的防壁でもあるとされている。
また、敵討ち・仇討ちの場合は「犠牲になった者が本当にそんな復讐を望んでいるのか」という問題も生まれる。犠牲者の全てが命を奪った悪人を憎悪するわけではなく、自分の死をある程度受け容れつつむしろ自分亡き後の家族・友・恋人の幸福を願って世を去る者も確かに一定数存在するからである。
この辺りの確認を蔑ろにし、ただ怒りのままに暴走する復讐者の場合は周囲(フィクションの場合は読者・視聴者も)から「犠牲者(の心)を踏みにじっているのはお前も一緒だろう」という手厳しい指摘が入る場合もある。
罪や不祥事に対する法的な制裁だけでは飽き足らず、ネットリンチなどが当たり前に見られるようになった最近は、「復讐は何も生まない」「復讐しても死者は蘇らない」というありがちな否定理由を綺麗事と捉え、個人が納得できるかどうかを優先して「復讐すればすっきりする」という肯定的な意見もよく見られる。
ただし、いくら酷い目に遭ったからと言って、何をしても許される免罪符にはならない。復讐は断じて他者を不幸にする行為を正当化するものではなく、それこそ怪物を倒すために自らも怪物になってしまう行為に等しい。放置すれば最悪「力さえあれば何をしても許される」という歪んだ正義感がまかり通ってしまう事態にもなりかねない。
むしろ、人が「復讐は何も生まない」「復讐しても死者は蘇らない」と言うのは復讐を完遂し、その後に何も残らなかったという虚しさを知ってしまった者だからこそ至った境地、復讐者に堕ちた者だからこその警句だとも言われる。
なお、ハンムラビ法典の有名な一節「目には目を、歯には歯を」は、断じて復讐を正当化・奨励したものではなく、倍返しを禁じるために制定されたものである。
他にも同じように誤解される言葉に「復讐するは我にあり」というものもあるが、これは新約聖書にて神が言った言葉の一節であり、「悪者に復讐するのは神の役目である(悪者にはいずれ天罰が下るのだから人が復讐に手を染める必要はない)」という趣旨の言葉である。
これらは言わば、「力のある者(国家など)が暴力を独占する事で私刑を防ぎ治安を保っている」という事になり、裏を返せば「暴力の独占が崩れると治安の乱れに繋がる」とも言えるのである。
そして、受けた側も受けた側で、その内容がどんなに醜いものであったとしても、相手を責める前に、自分の振る舞いに悪い点がなかったかを点検し、そして気づくところがあったなら素直に改める必要がある。そして、その後の展開がどのようなものであったとしても、自分の身を守るという意味でも、可能な限り「原因をつくらない」「敵を自ら作っている可能性がないかどうか振り返る」ことが大切なのである。もし自分が原因を作っていた場合、反省しなければ、また同じ目に遭いかねないのだから。
物語における復讐
復讐を題材にした物語は古くから古今東西に数多く存在している。
上述したような復讐の是非について問いかける内容が多いので、物語において復讐者が主人公あるいは重要キャラとなる際は、相応に同情できる理由(対象が世界規模の脅威をもたらす巨悪、何らかの事情で警察などが解決に動いてくれない、など)があったり、復讐を完遂した暁には自身も咎めを受ける覚悟を持っている事が多い。
逆に復讐者が周囲に絆されて復讐心を手放す(復讐相手とは復讐心ではなく「平和のため」など正当な理由で決着をつける)という展開も多い。
近年ネット小説で流行している復讐もののように、復讐を正当化している内容も多いが、いずれにしても忘れてはいけないのは、復讐しても許されるのはフィクションの中だけという事である(フィクションですら許されない事も多いが)。
一方作品内で復讐に燃えた人物による復讐の為の製作物が作品の人気を不動の物とし、フィクションであった筈の物が現代の技術で再現可能になりつつあり「復讐の為に作られた産物の現実版を体験したい」という読者が多々現れるという、復讐が文字通り何かを産んだパターンも存在する。