中国本土
ちゅうごくほんど
「中国本土」という概念に相当する英語「China proper」などの表現が、いつ頃西洋で用いられ始めたのかははっきりしていない。米国の中国専門家ハリー・ハーディングによれば、その用例は1827年まで遡ることができるという(Harding、1993)。しかし、それ以前にも、1795年にウィリアム・ウィンターボサムが、著書の中でこの概念に触れている(Winterbotham, 1795, pp.35-37)。清朝の中華帝国について述べる際に、ウィンターボサムは、これを中国本土(China proper)、中国領タタール地域(Chinese Tartary、満州)、朝貢国に三分している。ウィンターボサムは、デュ・アルドやグロシエの説に従い、「China」の呼称は秦に由来すると考えていた。その上でウィンターボサムは、「チャイナ(China)と、本来(properly)呼ばれるのは、…… 緯度で南北18度、経度で東西はもう少し狭い範囲」と述べている。
しかし、中国本土という用語を導入しながら、ウィンターボサムは1662年に廃された明朝の15省体制に基づいた記述をしている。明の15省の地方区分と比べると、ウィンターボサムは江南(Kiang-nan)を省名としているが、この地域は明代には南直隷と呼ばれており、江南に改称されたのは満州族が明を倒した翌年1645年のことであった。この15省体制は、1662年から1667年にかけて18省体制に再編された。ウィンターボサムが中国本土の説明に、15省体制を前提としつつ江南省の名称を用いたということは、この概念が1645年から1662年にかけての時期に登場してきたことを示している。
1795年のウィンターボサムの著書以前にも、中国本土という概念が用いられている例はあり、1790年の雑誌『The Gentleman's Magazine』や、1749年の雑誌『The Monthly Review』にも用例がある。
19世紀には、「チャイナ・プロパー」という用語は、中国当局者がヨーロッパの言語でコミュニケーションを図る場合にも使われるようになる。例えば、清が英国に派遣した大使曽紀沢は、1887年に英文で公表した記事でこの用語を使っている。
「中国本土」の概念は、中国へは清朝時代後期にもたらされ、後述のように18個の省が統治する地域を「漢地十八省」と表現するようになった。
また、清朝末期から中華民国の初期にかけての時期(清末民初)には、革命派や中国共産党の関係者にこの概念が受容されて「中国本部」という用語が使用されるようになった。例えば、鄒容の『革命軍』(1903年)第四章「革命必剖清人種」、孫文の『実業計画』(1921年)、中国共産党第二次全国代表大会(1922年)の「大会宣言」や「『帝国主義と中国および中国共産党』に関する決議案」などには「中国本部」という表現が用いられていた。台湾で出版される歴史の記述においては、柏楊の『中国人史綱』(1979年)や、許倬雲らの文章のように、第二次世界大戦後においても「中国本部」という表現が用いられることがある。
しかし、その後「中華民族」概念が広まると、中華民国やその後の中華人民共和国において、「中国本部」は排除される表現となった。1950年代に、銭穆は『中国歴代政治得失』第四講「明代」の中で、「中国本部」は「外国勢力が意図的に物事の是非を混乱させ侵略の口実として作り出したものだ」と述べている。
現代では、この用語の英語での用法はかなり限定され、主に歴史・地理な研究に使われるようになった。一方、汉語(中国語)での用法は非常に稀になり、ほとんどの現代な中国人にはなじみがない。