生い立ち
広東省の農家に同治5年(1866年)に生まれ、その後光緒3年(1878年)にハワイに移住するも、親族が海外思想にかぶれることを気にして帰国させられる。その後、香港で医学を学び、マカオで開業する。
革命家への道
しかし清仏戦争(ベトナム領有を巡るフランスと清との間の戦争、フランスは勝利したものの、損害大きく植民地の獲得にブレーキがかかった)を契機として政治に興味を持ち、再びハワイにわたり興中会(清朝打倒を目指す革命団体)を設立し、光緒20年(1895年)広州で反乱を起こそうとするも失敗し、日本に亡命。この時日本の政治団体の人物などと知り合いになった。
また光緒24年(1899年)からその翌年に義和団の乱(義和団を称する秘密結社による排外運動に西太后が乗っかる形で列強諸国に宣戦布告したものの、あっさり敗北し、多額の賠償金を課せられた)のさい、恵州で反乱をもくろむも失敗している。
その後、アメリカ経由でイギリスにわたるも清の公使館に抑留されたりしている(この件に関しては1904年に倫敦被難記としてまとめている、また、同年にはアメリカ国籍を取得)。
革命の資金を各国にて集めていたらしい(ただこの際所有すらしていない国家財産を抵当にして外国からの借款に頼ろうとしたりしていたらしい)。
また、日露戦争勝利後の日本に行き、日本亡命時代のコネを生かして中国革命同盟会(後の中国同盟会、清朝打倒を目指す革命運動の指導的役割を担った団体)を設立する。
宣統2年(1910年)に武昌起義が発生、これは辛亥革命(宣統3年より民国元年にかけ発生した革命、これにより中華民国が成立)につながり、そのさなか彼は中国に帰国、中華民国臨時大総統に就任。
革命は続く
国民党(中国同盟会を母体として宋教仁らが作成した政党、中国国民党とは別)は中国国内での選挙により第一党となったものの、宣統帝と入れ替わりに実力者となった袁世凱(1859-1916,軍人、政治家、北洋軍閥の総帥、のちに皇帝を自称する)の弾圧により活動が妨げられたため、引き続き第二革命が発生するも孫文は日本に再度亡命することになる。孫文は中華革命党(彼の支持者を集めて作られた政党)を成立させ対抗、袁世凱が皇帝の座に就くと、第三革命が発生した。
袁世凱の死後、彼は広州の軍閥の力を借りて対抗しようとするものの、失策や裏切りもあり失敗し、上海に逃れる。
ロシア革命や第一次世界大戦の講和会議により日本が中国本土の権益を得ると、中国では反日愛国運動が発生(五四運動)するようになった。
それに伴い、かれもまた「維新による自力革命」から「連ソ容共・労農扶助」へと舵を切ったとされ、ボリシェヴィキを参考に自らの政党を中国国民党と改め、政党の軍隊である国民革命軍などを設立。
さらに中国共産党との連立を深め、国共合作を深めることとなった(この路線は蒋介石などにより、死後覆されることとなる)。
死とその後
革命のさなかである1925年にガンにより北京にて死去。世辞は革命尚未成功、同志仍須努力(革命未だ成らず、同志は努力するべし)。死後、南京の中山陵に葬られる。
そのほか
- 中国語圏では孫 文よりも日本名の中山 樵(なかやま きこり)をとった孫 中山(そん ちゅうざん)の名称が一般的。
- 3回結婚している。一度目は盧慕貞と(男子あり)、二度目は日本人大月薫(女子あり)と、三度目は宋慶齢(なお妹は蒋介石婦人)と結婚しており、一度目と二度目は重婚ではないかといわれている。
- 中国国民党では現在も、孫文は「党総理」であると党則第15章で定めている。
- 中華民国においては国父と呼ばれ、中華人民共和国でも近代革命先行者として近年国父と呼ばれることがある。
- 南方熊楠とも親しかったことで知られる。